予防医学の経済合理性——医療費48兆円時代の社会設計
予防医学投資の費用対効果を構造分析。医療費の内訳と予防投資のROIを対比し社会設計を考える
何が起きているのか
2023年度、日本の国民医療費は48兆915億円に達した。前年度比3.0%増。過去最高の更新である。一人当たりに換算すると年間38万6,700円。生涯では約2,755万円の医療費がかかる計算になる。
だが、この48兆円のうち、「病気を治す」ための支出と「病気を防ぐ」ための支出の比率を見ると、構造的な歪みが浮かび上がる。
1円あたりの健康効果:予防 vs 治療
予防投資
治療費の構造
医療費の99.5%が治療に投じられ、予防には0.5%。ROIで劣る治療に資金が集中する「予防のパラドックス」
国の予防関連予算は約2,500億円。医療費全体のわずか0.5%にすぎない。残りの99.5%は、すでに発症した疾病の治療に投じられている。これは日本に限った話ではないが、予防投資のROI(投資対効果)が治療のそれを大幅に上回るという複数のエビデンスが存在するなかで、この配分は合理的と言えるだろうか。
厚生労働省の推計によれば、特定健診・特定保健指導の費用対効果は1円あたり3.0〜6.0円のリターンがある。CDCの推計ではインフルエンザワクチンのROIは約6.5倍。WHOの分析では禁煙支援プログラムが2.0〜3.5倍。数字は研究によって幅があるが、予防が治療より費用対効果に優れるという知見は、ほぼ一貫している。
にもかかわらず、なぜ予防に投資が回らないのか。ここに構造的な問題がある。
背景と文脈
予防のパラドックス——効果が見えにくいという宿命
予防医学が投資を集めにくい最大の理由は、「成功が不可視である」ことにほかならない。治療は結果が明確だ——手術が成功し、患者が回復する。一方、予防が成功した場合、何も起きない。病気にならなかった人は、予防のおかげで病気にならなかったのか、もともと病気にならなかったのかを区別できない。
疫学者のジェフリー・ローズが1981年に定式化した「予防のパラドックス」はこの構造を指す。集団全体に大きな便益をもたらす予防策であっても、個人レベルでの便益は小さく見える。禁煙キャンペーンが1万人の早死を防いだとしても、助かった1万人の誰も、自分が「助かった側」にいることを自覚しない。
このパラドックスは、民主主義社会における資源配分に直結する。有権者が「見える」治療に予算を求め、「見えない」予防に無関心であれば、政治家は治療に予算を配分する。合理的な個人の選択が、集合的には非合理な資源配分を生む——人口減少と東京一極集中の構図にも通じる、社会設計の根本的な難題だ。
医療費の内訳——何に使われているのか
48兆円の内訳をもう少し詳しく見てみよう。入院医療費が17.6兆円(36.6%)、外来医療費が16.2兆円(33.7%)、薬局調剤医療費が8.1兆円(16.9%)。残りが歯科や訪問看護などである。
疾病別に見ると、最大の支出項目は循環器疾患(心疾患・脳卒中等)で約6兆円。次いで新生物(がん)の約5兆円、筋骨格系疾患(腰痛・関節症等)の約2.5兆円と続く。いずれも生活習慣との関連が深い疾患群だ。
注目すべきは年齢構造との関係である。65歳以上の一人当たり医療費は約75万円、65歳未満は約20万円。約3.7倍の差がある。高齢者人口が増加する限り、医療費の増大は避けられない構造になっている。2040年には国民医療費が68兆円に達するとの政府推計があるが、これは高齢化の進行だけでなく、医療技術の高度化による単価上昇も織り込んだ数字である。
海外の予防投資——何が違うのか
OECDの「Health at a Glance 2025」によれば、日本の予防・公衆衛生支出はGDP比で0.17%。OECD平均の0.23%を下回る。対してフィンランドは0.38%、カナダは0.35%、韓国は0.31%である。
フィンランドの「北カレリアプロジェクト」は、予防投資の成功例として知られる。1972年に開始された心血管疾患の予防プログラムは、食事指導と禁煙推進を中心に据え、30年間で心血管疾患による死亡率を80%低下させた。プログラムへの投資額に対し、医療費削減と労働生産性向上による経済効果は数十倍とされている。
日本でも成功事例はある。長野県は1960年代から減塩運動と健康診断の普及に取り組み、かつて脳卒中死亡率が全国ワーストだった状態から、現在は平均寿命が全国トップクラスにまで改善した。しかし、こうした取り組みは自治体の独自努力に依存しており、全国的な制度として組み込まれていない。
構造を読む
なぜ制度は「治療」に偏るのか——三つの構造的要因
予防への投資が進まない背景には、少なくとも三つの構造的要因がある。
第一に、時間軸の不一致。予防投資の効果は10〜30年のスパンで現れるが、政策サイクル(選挙・予算編成)は1〜4年。効果が出る頃には意思決定者が交代している。長期投資に向いた制度設計になっていない。
第二に、利害関係の非対称。治療には巨大な産業——病院、製薬、医療機器——が紐づいている。予防には同等の利害関係者がいない。健康食品やフィットネス産業は存在するが、医療産業のロビイング力とは比較にならない。
第三に、エビデンスの困難。予防効果を厳密に測定するためには、大規模・長期のランダム化比較試験が必要になる。倫理的な制約もあり、治療効果の測定ほど容易ではない。エビデンスが不十分だから投資されず、投資されないからエビデンスが蓄積しないという循環が生じている。
社会設計としての予防——何を変えるべきか
予防医学を「個人の健康管理」の問題として捉える限り、構造は変わらない。必要なのは、予防を社会インフラとして位置づけ直すことだ。
具体的には、三つの方向性が考えられる。
配分の転換。医療費の1%——約4,800億円——を予防に振り向けるだけで、現在の予防予算は倍増する。これを「コスト」と見るか「投資」と見るかで、議論の枠組みが根本から変わる。
インセンティブの再設計。現行の医療制度は「治療した量」に報酬が連動する出来高払いが基本だ。予防に成功し、患者が来なくなれば収入は減る。成果連動型報酬(P4P: Pay for Performance)の導入により、健康アウトカムの改善に報酬を紐づける制度設計が必要になる。
データ基盤の構築。特定健診のデータ、レセプトデータ、介護データを統合的に分析できれば、予防投資の効果測定は格段に精度が上がる。しかし現状では、これらのデータは省庁・保険者ごとに分断されており、横断的な分析が困難な状態にある。
48兆円という数字は、日本の医療制度が限界に近づいていることを示す。治療中心の制度をこのまま維持すれば、2040年には68兆円に膨らむ。予防への転換は、理想論ではなく、財政的な必然である。
関連コラム
参考文献
令和5年度 国民医療費の概況
厚生労働省. 厚生労働省
原文を読む
Health at a Glance 2025
OECD. OECD
原文を読む
特定健康診査・特定保健指導の医療費適正化効果等の検証のためのワーキンググループ
厚生労働省 保険局. 厚生労働省
原文を読む
The North Karelia Project: A 30-year perspective
Puska, P.. European Heart Journal
原文を読む