このノートは社会構想デザイン研究室(ISVD-LAB-003)の文献マップシリーズの一篇である。エビデンスに基づく政策立案(EBPM)の知的系譜を辿り、ISVDのデータ駆動アプローチがどこに位置するのかを明らかにする。
何が起きているのか
EBPM(Evidence-Based Policy Making)——エビデンスに基づく政策立案——は、21世紀の公共政策における支配的パラダイムとなった。「思い込みや前例ではなく、客観的な根拠に基づいて政策を立案・評価せよ」という主張は、一見すると反論の余地がない。しかし、「何がエビデンスとして数えられるのか」「誰がそのエビデンスを生産し、誰の問いに答えているのか」という問題は、EBPMの推進者自身によってはほとんど問われてこなかった。
ISVDはデータ駆動型の社会分析を方法論の中核に据えている。e-Stat APIを通じた政府統計の自動取得、統計ダッシュボードの構築、定量データに基づくコラム執筆——これらは表面的にはEBPMと共鳴する。だが、ISVDの問いは「我々の政策は効いたか?」ではなく「この問題の真の姿はどうなっているのか?」である。この差異を明確にするために、EBPMの知的系譜を文献に基づいて辿る必要がある。
背景と文脈
エビデンス階層の誕生: EBMからEBPへ
EBPMの知的源流は、医学におけるArchie Cochraneに遡る。Cochraneは1972年の著書 Effectiveness and Efficiency において、医療行為はランダム化比較試験(RCT)によって検証されるべきだと主張した。この主張は、1990年代にDavid Sackettらによって「エビデンスに基づく医療(EBM)」として体系化された(Sackett et al., 1996)。EBMの核心は「エビデンス階層」——メタ分析とRCTを頂点とし、専門家の意見を最下位に置くピラミッド——にある。
この医学の方法論が公共政策へと越境したのが、1990年代末の英国である。1999年、ブレア政権は白書 Modernising Government を発表し、「エビデンスに基づく政策立案」を政府の公式方針として宣言した。NICE(1999年設立)が医療政策においてエビデンスの制度的活用を先導し、Campbell Collaboration(2000年設立)が社会政策・教育・刑事司法分野へとエビデンスの統合を拡張した。
ナッジの台頭と行動経済学の政策応用
EBPMの第二の波は、行動経済学の政策応用として到来した。Thaler & Sunsteinの 『Nudge』(2008年)は、人間の認知バイアスを前提とした政策設計——選択アーキテクチャ——を提唱した。
英国は2010年にBehavioural Insights Team(BIT)——通称「ナッジ・ユニット」——を内閣府内に設立し、EASTフレームワーク(Easy, Attractive, Social, Timely)を政策設計に導入した。ナッジは「小さな介入で大きな行動変容を」という費用対効果の物語と結びつき、緊縮財政下の政府にとって魅力的なツールとなった。
RCT革命と開発経済学
EBPMの第三の波は、開発経済学における「RCT革命」である。Abhijit Banerjee、Esther Duflo、Michael Kremerは、途上国の貧困削減策をRCTで検証する方法論を確立し、2019年にノーベル経済学賞を受賞した。彼らが設立したJ-PAL(Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab)はMIT内に設置され、1,000件以上のRCTを実施・支援してきた。
RCT革命は、「エビデンスに基づく政策」を「RCTに基づく政策」へと狭義化する力学を生んだ。この動向に対し、Deaton & Cartwright(2018)は「RCTだけでは因果メカニズムの理解に至らない」と批判し、エビデンス階層の再考を求めた。
日本のEBPM: 制度化と課題
日本におけるEBPMの制度化は2017年に本格化した。「統計改革推進会議最終取りまとめ」においてEBPMの推進が政府方針として明記され、内閣官房にEBPM推進委員会が設置された。RIETIは2022年にEBPMセンターを開設し、政策評価の方法論研究と実践支援を開始した。
政府統計のオープン化も進んだ。e-Statは政府統計の総合窓口としてAPI提供を拡充し、RESAS(地域経済分析システム)は地方自治体の政策立案を支援するデータプラットフォームとして整備された。
しかし、日本のEBPMにはいくつかの構造的問題がある。第一に、2018〜19年に発覚した毎月勤労統計の不正問題は、エビデンスの基盤となる政府統計そのものの信頼性を揺るがした。第二に、「EBPM」の名のもとに既存の政策を事後的に正当化する「疑似EBPM」の横行が指摘されている——予算獲得のために都合のよいデータだけを選択的に提示し、不都合なエビデンスを無視する実践である。
EBPMへの批判: 政治と知識の関係
EBPMへの学術的批判は、単なる方法論上の議論にとどまらない。Cairney(2016)は The Politics of Evidence-Based Policy Making において、「政策立案は本質的に政治的プロセスであり、エビデンスはその中で選択的に利用される」と論じた。科学者が想定する「エビデンス → 政策」という線形モデルは、現実の政策過程においてはほとんど成立しない。
Deaton & Cartwright(2018)はさらに踏み込み、RCTの「内的妥当性」の高さが「外的妥当性」——別の文脈への適用可能性——を保証しないことを指摘した。ある地域で効果があった介入が、異なる制度・文化・社会構造のもとで同じ効果を持つとは限らない。
これらの批判が共通して問うているのは、「誰のための、何のためのエビデンスか」という根本的な問いである。そしてこの問いは、ISVDの問題設定に直接接続する。
構造を読む
EBPMのパラダイムとISVDの差異
EBPMの基本的な問いは「我々の政策は効いたか?」(Did our policy work?)である。この問いの構造には、いくつかの前提が埋め込まれている。
- 問題は既に定義されている: EBPMは、何が問題であるかについては争いがないことを前提とする。しかし現実には、「何が問題なのか」の定義そのものが政治的に構成される。
- エビデンスは中立的である: データは客観的な事実を反映するとされるが、何を測定し、何を測定しないかの選択はすでに価値判断を含んでいる。
- 政策は問題解決のためにある: しかし、Cairneyが指摘するように、政策は予算獲得・政治的正当化・組織維持など、問題解決以外の目的にも用いられる。
ISVDの問いは「この問題の真の姿はどうなっているのか?」(What is the true shape of this problem?)である。この問いは、問題の定義そのものを疑うところから始まる。
ISVDのデータ駆動アプローチは、EBPMと表面的にはツールを共有する——統計データの取得、定量的分析、可視化。だが目的が異なる。EBPMにおけるデータは「政策の効果を測定する道具」であるのに対し、ISVDにおけるデータは「不可視の構造を浮かび上がらせる手がかり」である。この差異は、「社会構想デザインの知的座標」で述べた6つの知的源流のうち、アグノトロジーの視座から生まれている。
構造の暴露 vs 予算の正当化
EBPMが制度として定着する過程で、しばしば「疑似EBPM」が生まれる。これは、政策の正当化のためにエビデンスを選択的に利用する実践であり、日本の毎月勤労統計不正はその極端な事例である。
ISVDのアプローチは、この「疑似EBPM」の対極に位置する。ISVDは特定の政策を推進する立場を持たない。目的は構造の暴露——社会がどのような形をしているのかを、可能なかぎり正確に描き出すこと——にある。ここにおいて、ISVDのデータ駆動アプローチは、EBPMの政策評価とは異なり、ポスト・ノーマルサイエンスの方法論的態度に近づく。不確実性が高く、利害が対立し、意思決定が急がれる状況において、「正解」を提示するのではなく「構造」を可視化するという姿勢である。
ISVDにとってのEBPMの系譜の意味
EBPMの系譜をISVDが学ぶべき理由は3つある。
第一に、方法論の洗練。RCT・系統的レビュー・メタ分析などのエビデンス統合の手法は、ISVDが社会構造を分析する際の方法論的な参照点となる。エビデンス階層の議論は、「どのデータをどこまで信頼してよいか」という判断の枠組みを提供する。
第二に、制度的失敗からの学び。日本のEBPM推進における疑似EBPM・統計不正の事例は、データを扱う組織が陥りうる罠を示している。ISVDがオープンアクセスと独立性を重視するのは、こうした制度的失敗への応答でもある。
第三に、批判的対話の相手。Cairney、Deaton & Cartwrightらの批判は、ISVDの問題設定——「誰のためのエビデンスか」「何が測定されていないのか」——と共鳴する。EBPMの批判者たちが政策過程の内部から提起している問いを、ISVDは市民社会の側から問い直す。
参考文献
Evidence based medicine: what it is and what it isn't — Sackett, D. L., Rosenberg, W. M., Gray, J. M., Haynes, R. B., & Richardson, W. S.. BMJ, 312(7023), 71-72
The Politics of Evidence-Based Policy Making — Cairney, P.. Palgrave Macmillan
Understanding and misunderstanding randomized controlled trials — Deaton, A. & Cartwright, N.. Social Science & Medicine, 210, 2-21
The Nobel Prize in Economic Sciences 2019: Banerjee, Duflo, Kremer — The Royal Swedish Academy of Sciences. NobelPrize.org
RIETI EBPMセンター — エビデンスに基づく政策形成プロジェクト — 独立行政法人経済産業研究所. RIETI
Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance — Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press
