何が起きているのか
社会問題には、見えている問題と見えていない問題がある。見えていない問題のほうが、はるかに深刻であることが多い。ではなぜ見えないのか。「まだ発見されていないから」なのか、それとも「見えないように作られているから」なのか。
この問いに対して、過去20年間に複数の学問分野から重要な知見が蓄積されてきた。科学史家Robert N. Proctorの無知学(agnotology)、哲学者Miranda Frickerの認識的不正義論、社会学者Linsey McGoeyの戦略的無知論、そしてCarl T. Bergstrom & Jevin D. Westのデータリテラシー論——これらは個別に発展してきたが、一本の知的系譜として読むことができる。
ISVDが記事の基本構成として採用している「何が起きているのか → 背景と文脈 → 構造を読む」という3セクション形式は、この系譜の方法論的翻訳である。本ノートでは、その知的源流を文献マップとして整理する。
背景と文脈
第1層: 無知の生産——Robert Proctor(2008)
Proctorは『Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance』(Schiebingerとの共編)において、「agnotology(無知学)」という学問名を確立した。その核心的洞察は明快である——無知は知識の単なる欠如ではなく、積極的に生産されうる。
Proctorの分析対象はタバコ産業であった。タバコ産業は喫煙と肺癌の因果関係を1950年代の段階で社内的に把握していたにもかかわらず、「科学的にはまだ決着がついていない」という言説を数十年にわたって維持した。疑念(doubt)を製造することによって、確立された科学的知見を社会的に無効化したのである。
この研究がISVDの問題意識にとって決定的に重要なのは、「知らないこと」を自然現象ではなく社会的産物として捉える視座を開いた点にある。社会問題が見えないのは、見えない「ように」作られている場合がある。この認識なしに社会分析を行うことは、構造的に不完全である。
第2層: 認識的不正義——Miranda Fricker(2007)
Proctorが「知識がいかに妨げられるか」を問うたのに対し、Frickerは「誰の知識が正当に扱われないか」を問うた。『Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing』において、Frickerは認識的不正義を2つの形態に分類した。
第一の形態は 証言的不正義(testimonial injustice) である。話者が偏見ゆえに信用されない場合を指す。たとえば、非正規雇用者の労働環境に関する証言が「個人の努力不足」として退けられるとき、そこには証言的不正義が生じている。
第二の形態は 解釈的不正義(hermeneutical injustice) である。ある経験を言い表す概念が社会に存在しないため、その経験が認識されえない場合を指す。「セクシュアルハラスメント」という概念が社会に定着する以前、その経験は存在していたが、語る言葉がなかった。
ISVDの活動にとって、解釈的不正義の概念はとりわけ重要である。多くの社会問題が不可視であるのは、単に情報が隠蔽されているからではなく、それを問題として認識するための概念的枠組み自体が存在しないからである。ISVDの記事が「構造を読む」セクションで試みているのは、まさにこの概念的枠組みの構築——読者に新しい「見え方」を提供すること——にほかならない。
第3層: 戦略的無知——Linsey McGoey(2019)
McGoeyは『The Unknowers: How Strategic Ignorance Rules the World』において、Proctorの無知学をフィランスロピーと国際開発の領域に拡張した。McGoeyが導入した中心概念は「有益な無知(beneficial ignorance)」である。権力者は、知らないでいることから利益を得る場合がある。
たとえば、大規模な慈善財団が助成先の効果測定を「十分に行えない」とするとき、それは測定能力の欠如なのか、それとも効果が低いという結果を知りたくないからなのか。McGoeyは後者の可能性を体系的に分析した。「知らないでいること」が戦略的に維持される構造が、社会全体に遍在していることを示したのである。
この知見はISVDの分析フレームワークに直接関わる。社会問題の不可視性は、能動的な情報隠蔽(Proctorのモデル)だけでなく、受動的な無関心の戦略的維持によっても生産される。誰も意図的に隠していないにもかかわらず、構造的に見えなくなっている問題——これをISVDは「構造的不可視性」と呼ぶ。
第4層: データリテラシーと市民的基盤——Bergstrom & West(2020)
Bergstrom & Westの『Calling Bullshit: The Art of Skepticism in a Data-Driven World』は、前3層の認識論的知見を市民生活の実践に接続した。データの誤用・悪用がいかに社会的無知を再生産するかを具体的な事例で示し、データリテラシーを個人のスキルではなく市民的インフラストラクチャとして位置づけた。
この著作の意義は、認識論的な批判を「では、どうすればよいのか」という実践的問いに接続した点にある。ISVDがデータ可視化(e-Stat APIを用いた統計ダッシュボード)やファクトチェックを活動の柱に据えているのは、Bergstrom & Westが提示した「データリテラシーは市民的基盤である」というテーゼの実装である。
構造を読む
4つの層から「構造的不可視性」へ
上記の4つの知的源流を重ね合わせると、社会問題の不可視性には少なくとも4つのメカニズムが存在することがわかる。
- 意図的な無知の生産(Proctor): 特定のアクターが情報を意図的に隠蔽・攪乱する
- 認識的排除(Fricker): 特定の人々の経験や知識が構造的に信用されない、あるいは概念化されない
- 戦略的無知の維持(McGoey): 権力者が知らないでいることから利益を得る構造が放置される
- データの誤用による再生産(Bergstrom & West): データの選択的提示や誤った可視化が、見えるべきものを見えなくする
ISVDが「構造的不可視性」と呼ぶものは、これらのメカニズムが単独で、あるいは複合的に作用することによって、社会問題が認識の射程外に置かれる現象の総体である。
「構造を読む」——方法論としての翻訳
ISVDの記事構成「何が起きているのか → 背景と文脈 → 構造を読む」は、この知的系譜を方法論へと翻訳したものである。
「何が起きているのか」は、問題の可視的な表面を記述する。統計データ、報道、当事者の声を提示し、「何かが起きている」という認識を共有するための起点である。
「背景と文脈」は、Proctorの問い——「なぜ今まで知られていなかったのか」——を問い直す段階である。歴史的経緯、制度的要因、利害関係の構造を分析する。
「構造を読む」は、Frickerの解釈的不正義への応答である。見えている問題の背後に、どのような不可視の構造が存在するのかを言語化する。まだ名前を持たない問題に概念的枠組みを与え、読者が自らの経験と社会構造を接続するための認識装置を提供する。
この3段階は、無知学(構造的に生産された無知を検出する)→ 認識的不正義論(排除された知識を回復する)→ 市民的実践(データと言語で対抗する)という知的系譜の、記事フォーマットへの翻訳にほかならない。
残された問い
本ノートで整理した知的系譜は、ISVDの方法論の認識論的基盤を示すものであるが、いくつかの問いが残されている。
第一に、「構造的不可視性」の操作的定義である。Proctorの無知学は歴史的事例分析の方法論を持ち、Frickerの認識的不正義は哲学的分析の枠組みを持つ。ISVDが「構造的不可視性」を分析概念として用いるならば、それを検出し評価するための操作的な基準が必要である。
第二に、この系譜と日本の知的伝統との接続である。日本語圏におけるアグノトロジーの受容は始まったばかりであるが、水俣病研究に見られる「加害の構造」分析や、社会福祉学における「制度の狭間」の概念は、構造的不可視性の研究と実質的に重なる。この接続については、無知学研究室の文献マップを参照されたい。
第三に、デザイン実践への橋渡しである。認識論的な批判から、具体的な情報デザイン・データ可視化・記事構成への翻訳は、どのような原則に従うべきか。これは本研究室の次の課題である。
→ 関連: 無知学研究室の研究体系 | 日本語圏無知学の文献マップ
参考文献
The Unknowers: How Strategic Ignorance Rules the World — McGoey, L.. Zed Books



