このノートは無知学研究室の研究体系の全体像である。各テーマの詳細は個別ノートを参照されたい。
なぜ「無知」を研究するのか
私たちは日々、膨大な情報に囲まれながら、決定的に重要なことを知らない。それは偶然ではない。Robert Proctor(2008)が「無知学(Agnotology)」と名づけたこの学問は、無知が いかに意図的に生産・維持されるか を解明する。タバコ産業が健康被害のエビデンスを数十年にわたり組織的に隠蔽した事例——これが無知学の出発点であった。
鶴田想人・塚原東吾 編(2025)は『無知学への招待』において、無知を三つの層に分類した。
- ネイティブな無知(Native Ignorance) — まだ知られていないこと。科学のフロンティア
- 失われた知識(Lost Knowledge) — かつて知られていたが忘れられたこと
- 戦略的に作られた無知(Strategically Produced Ignorance) — 意図的に「知らない状態」が維持されていること
本研究室が照準を合わせるのは、主に第三の層——戦略的に作られた無知である。広告、プロパガンダ、メディア、教育制度、法制度、テクノロジー。これらは個別に論じられることが多い。だが無知学の視座に立つと、それらが「無知を生産する装置」として同じ構造的パターンを共有していることが見えてくる。
グラウンデッド・セオリー的コーディング・フレームワーク
研究アプローチ: 帰納的データセット構築
なぜ単一軸の分類体系は機能しないか
無知学が扱う現象は本質的に多次元的である。ひとつの事例が、広告でありプロパガンダでもあり、国家と企業が共同で遂行し、教育制度を経由して再生産される——こうした重層性が無知の生産の本質である。
本研究室は当初、6つの研究領域(広告・プロパガンダ・メディア・教育・宗教/権威・国民性/集団心理)による分類体系を設計した。しかしこのアプローチには構造的な問題があった。
- 軸の混在: D1〜D5がアクター軸(誰が無知を生産するか)で構成される一方、D6(国民性・集団心理)は文化的文脈軸であり、分類の基準が一貫しない
- 重複: 広告(D1)とプロパガンダ(D2)は、現実には国家広報・政治広告として融合しており、排他的な区分が困難である
- 欠落: 法制度による知識の制限(秘密保護法制、特許制度)、テクノロジーによるアーキテクチャ的統制(アルゴリズムフィルタリング)、経済構造による知識格差——これらの重要な無知生産メカニズムが体系から漏れていた
単一軸のMECE分類は、無知学のような多次元現象には原理的に適合しない。
グラウンデッド・セオリー型の構造化コーディング
新しいアプローチとして、本研究室はグラウンデッド・セオリーの方法論に倣い、帰納的なデータセット構築を採用する。あらかじめ領域を区切って事例を振り分けるのではなく、個々の研究ノートに多次元のタグを付与し、蓄積されたデータから分類体系(タクソノミー)を浮かび上がらせる。
各研究ノートのフロントマターに、以下の 7つのコーディング軸 でタグを付与する。
| # | 軸 | 定義 | 型 |
|---|---|---|---|
| 1 | mechanisms | 無知がいかに生産されるか(メカニズム) | 自由タグ |
| 2 | actors | 組織レベル: individual / organization / institution / social-field / technical-system | 制約タグ |
| 3 | actorDetails | 具体的なアクター名 | 自由タグ |
| 4 | targets | どのような知識が抑圧されるか | 自由タグ |
| 5 | intentionality | strategic(意図的)/ structural(構造的)/ emergent(創発的) | 制約タグ |
| 6 | powerDirection | top-down / lateral / bottom-up / algorithmic | 制約タグ |
| 7 | geoCultural | 地理的・文化的コンテクスト | 自由タグ |
「制約タグ」はあらかじめ定義された選択肢から選ぶもの、「自由タグ」は事例に応じて新規作成できるものである。自由タグは研究ノートの蓄積に伴い語彙が成長し、やがてクラスタリングや共起分析によってボトムアップの分類体系が形成される。
このアプローチの利点は三つある。
- 多次元性の保持: ひとつの事例に複数のメカニズム・アクター・ターゲットを同時に付与できる。タバコ産業の事例であれば、
mechanisms: [doubt-manufacturing, regulatory-capture]、actors: [organization, institution]、actorDetails: [tobacco-industry, regulatory-agency]のように、事象の複雑性をそのまま記述できる - 欠落の構造的な防止: 新しい事例が既存の軸で記述できない場合、それは軸の拡張か新軸の追加を検討するシグナルとなる。固定的な領域分類では、枠に収まらない事例が単に無視される
- 発見の促進: タグの共起パターンから、研究者が事前に想定していなかった構造的類似性が見えてくる。McGoey(2012; 2019)が指摘した「有用な無知(useful ignorance)」——知らないことが権力にとって機能的である構造——は、まさにこうした帰納的分析から見出されるパターンの典型である
横断テーマ
メカニズム軸のタグは、個別事例を超えた構造的パターンとして横断テーマを形成する。
| 横断テーマ | 関連メカニズム | 概要 |
|---|---|---|
| コスト非対称性 | doubt-manufacturing, attention-control | 嘘の生産コスト < 訂正コスト。ブランドリーニの法則が示すこの非対称性は、広告・プロパガンダ・メディアに共通する構造であり、AI生成コンテンツにより桁違いに拡大している |
| 認識的不正義 | epistemic-exclusion | 誰の声が「知識」として認められるかの権力構造。NPOの現場知が「主観的」として退けられるパターンはこのメカニズムの典型である(→ 詳細: NPOの認識的不正義と情報到達格差) |
| 戦略的無知 | strategic-ignorance | 不都合な知識を意図的に遠ざける制度的メカニズム。EBPMにおいてエビデンスが「データ不十分」と退けられるパターンが典型(→ 詳細: EBPMにおける戦略的無知の阻害効果) |
| フィルター構造 | attention-control, complexity-weaponization | 「見せるもの」の選別による「見せないもの」の不可視化。アルゴリズムによるフィルタリングから、教育カリキュラムの選択的記述まで、同一の構造が異なるスケールで反復される |
| 同調と沈黙 | silence-structuring | 異論のコストを引き上げることで「知っていても言わない」を構造化する。山本七平が分析した「空気による支配」は、このメカニズムの日本的表出である |
→ 詳細: ブランドリーニ非対称性のAI増幅
やるべきこと / やらなくていいこと
やるべきこと
- 7軸コーディングフレームワークに基づく研究ノートの蓄積と構造化
- 時事問題を無知学の枠組みで構造的に問い直すエッセイの蓄積
- タグの共起分析・クラスタリングによるボトムアップの分類体系構築
- 日本の社会文化的文脈に根ざした無知学の独自体系の構想
- 対抗デザイン(Counter-Design)としての情報リテラシー教育の設計
やらなくていいこと
- ファクトチェック手法自体の開発(既存組織が十分に取り組んでいる)
- 個別のフェイクニュース事例の収集・検証(ジャーナリズムの領域)
- 特定の宗教・政党・組織への攻撃(構造分析であり、糾弾ではない)
- 「無知は悪い」の道徳的主張(構造を明らかにすることが目的)
- 演繹的な完全分類体系の事前設計(データから帰納的に構築する)
参考文献
Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance
Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press
原文を読む
無知学への招待 — 未知・無知・不可知の人文学
鶴田想人・塚原東吾 編. 明石書店
原文を読む
Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing
Fricker, M.. Oxford University Press
原文を読む
The Russian 'Firehose of Falsehood' Propaganda Model
Paul, C. & Matthews, M.. RAND Corporation, Perspectives PE-198
原文を読む
Strategic unknowns: towards a sociology of ignorance
McGoey, L.. Economy and Society, 41(1), 1-16
原文を読む
The Unknowers: How Strategic Ignorance Rules the World
McGoey, L.. Zed Books
原文を読む
Calling Bullshit: The Art of Skepticism in a Data-Driven World
Bergstrom, C. T. & West, J. D.. Random House
原文を読む
「空気」の研究
山本七平. 文藝春秋
Post-Truth
McIntyre, L.. MIT Press
原文を読む