一般社団法人社会構想デザイン機構
ISVD-LAB-002基盤構築
1.4.5

日本語圏無知学の文献マップ 2022–2026 — 学問の誕生を追う

2022年の科学史研究61巻特集号から2025年の『無知学への招待』まで、日本語圏における無知学研究の展開を文献マップとして整理する。研究者ネットワーク、主要出版物、学会発表を時系列で追跡し、この新しい学問分野の現在地を可視化する。

横田 直也
約8分で読めます

何が起きているのか

日本で「無知学(agnotology)」が独立した学問分野として認知され始めている。2022年から2025年にかけて、3つのマイルストーンが連続した。

第一のマイルストーンは、2022年に刊行された『科学史研究』61巻303号の特集「アグノトロジー」である。日本科学史学会の機関誌において無知学が正面から取り上げられたのは、これが初めてであった。この特集は、無知学が科学史・科学哲学の研究者コミュニティにおいて学術的に認知されたことを意味する。

第二のマイルストーンは、2023年6月号の『現代思想』における無知学特集である。青土社の『現代思想』は人文・社会科学系の一般読者に広く読まれる雑誌であり、ここで取り上げられたことにより、無知学は専門的な科学史の枠を超え、より広い知的文脈に位置づけられるようになった。

第三のマイルストーンは、2025年に明石書店から出版された鶴田想人・塚原東吾編『無知学への招待——いかに「知らないこと」が作られるか』である。これは日本語圏で初めての体系的な無知学入門書であり、この分野がようやく「教科書」を持つに至ったことを示している。

わずか3年の間に、学術誌の特集、思想誌での一般化、そして入門書の出版という段階を駆け抜けた。学問分野の受容としては、きわめて速い展開である。

日本における無知学関連研究の系譜
(図解準備中)

図: 日本の無知学研究タイムライン

背景と文脈

Proctorの原著から日本への受容

無知学の起源は、科学史家Robert N. Proctorの仕事に遡る。Proctorは1990年代からタバコ産業の情報操作を研究し、企業が科学的知見を意図的に隠蔽・攪乱するメカニズムを分析していた。2008年に出版されたProctor & Schiebinger編『Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance』は、「無知がいかに作られるか」を体系的に論じた画期的な著作であり、agnotologyという学問名もここで確立された。

しかし、この著作が日本語に翻訳されることはなかった。2008年の出版から2022年の『科学史研究』特集まで、実に14年の空白がある。この間、無知学は英語圏では急速に発展し、認識論(epistemology)、科学技術社会論(STS)、政治学、メディア研究に広がっていったが、日本語圏ではほとんど紹介されなかった。

この空白自体が、無知学的に興味深い現象である。日本の科学史・科学哲学コミュニティがProctorの仕事を知らなかったわけではない。しかし、独立した研究プログラムとして日本語圏に定着するまでには、特定の研究者たちの意識的な紹介と翻訳の努力が必要だった。

『科学史研究』61巻303号(2022年)——学術的認知

この特集号は、日本語圏における無知学の「出発点」として位置づけられる。掲載された論文は、Proctorの枠組みを紹介するだけでなく、日本固有の文脈——水俣病、原発事故、公害問題など——において「知られなかったこと」がいかに構造的に生産されたかを分析した。

重要なのは、この特集が単なる翻訳紹介ではなく、日本の歴史的事例を通じて無知学の射程を独自に拡張しようとした点である。科学史研究という厳密な査読誌に掲載されたことで、無知学は日本のアカデミアにおいて「正統な」研究対象としての地位を獲得した。

『現代思想』2023年6月号——一般知識人層への浸透

『現代思想』の特集は、無知学を科学史の専門コミュニティから解放し、哲学、社会学、政治学、メディア論といった隣接分野の研究者や一般の知識人に届ける役割を果たした。青土社の読者層は大学の研究者にとどまらず、ジャーナリスト、編集者、教育者、市民活動家にも及ぶ。

この号では、ポスト真実の政治、陰謀論の社会的機能、SNS時代の情報環境、認識的不正義といった現代的テーマと無知学が接続された。読者は、agnotologyが象牙の塔の概念ではなく、日常的な情報環境を分析するためのツールであることを知った。

『無知学への招待』(2025年)——教科書の誕生

鶴田想人・塚原東吾編『無知学への招待——いかに「知らないこと」が作られるか』(明石書店、2025年)は、複数の章立てで無知学の理論・歴史・応用を網羅した初の日本語単行本である。

この書籍は、Proctorの枠組みを基盤としつつ、日本の研究者による独自の分析を数多く含んでいる。科学史・科学哲学を専門とする研究者だけでなく、NPO実務者、ジャーナリスト、政策立案者にも読みやすい構成が意識されている点が特徴的である。

「教科書」の出版は、学問分野の成熟を示す重要な指標である。これにより、大学の講義で無知学を体系的に教えることが初めて可能になった。

Miranda Frickerの受容——認識的不正義との接続

無知学の日本語圏への受容と並行して、Miranda Fricker(2007)の「認識的不正義(epistemic injustice)」理論の紹介も進んだ。佐藤邦政をはじめとする哲学者がFrickerの理論を日本語で論じ、証言的不正義と解釈的不正義の概念が徐々に浸透した。

Proctorの無知学が「知識がいかに妨げられるか」を問うのに対し、Frickerの認識的不正義論は「誰の知識が正当に評価されないか」を問う。この2つの問いは補完的であり、日本語圏では両者がほぼ同時期に紹介されたことで、「構造的に作られる無知」と「構造的に排除される知識」を統合的に論じる土壌が形成された。

構造を読む

研究者ネットワークの地図

日本語圏の無知学研究を牽引する研究者は、現時点では比較的少数のグループに集中している。

中心的な位置にいるのは、鶴田想人と塚原東吾である。塚原は神戸大学で科学史・科学技術社会論を専門とし、科学と社会の関係を長年研究してきた。鶴田は塚原の研究室から出発し、Proctorの無知学を日本の文脈に適用する仕事を継続的に行っている。『無知学への招待』の共同編者であることからも、この2人が日本語圏における無知学の制度的基盤を築いたことがわかる。

飯田香穂里(総合研究大学院大学)と井口暁は科学史研究の文脈から無知学に接近した研究者である。彼らの仕事は、歴史的事例——公害問題、薬害事件、原発事故——における「知られなかったこと」の構造分析に特徴がある。

認識的不正義の文脈では、佐藤邦政がFrickerの理論の紹介と日本語圏への適用に貢献している。哲学・認識論の専門家として、Frickerの精密な議論を日本語で再構成する仕事は、無知学と認識的不正義を架橋する役割を果たしている。

主要キーワードの推移

2022年から2025年にかけて、日本語圏の無知学研究において中心的に使用されるキーワードは推移している。

2022年の段階では、「アグノトロジー」「無知の生産」「タバコ産業」といったProctorの枠組みに直接由来するキーワードが中心であった。研究の関心は、Proctorが分析した古典的事例——タバコ産業による科学的知見の隠蔽——を日本語で紹介し、その枠組みを理解することにあった。

2023年になると、「ポスト真実」「情報操作」「認識的不正義」「陰謀論」といった、より現代的な文脈に関わるキーワードが増加した。これは『現代思想』特集の影響が大きい。無知学が歴史研究の道具から、現在進行形の社会分析の道具へと転換した時期である。

2025年の『無知学への招待』以降は、「構造的無知」「沈黙の構造化」「知の周縁化」といった、無知学固有の分析概念が日本語で定着し始めている。これは日本語で無知学を「する」——単に紹介するのではなく、独自の分析を行う——段階に入ったことを示唆する。

海外との接続点

日本語圏の無知学は、英語圏の研究とどのように接続しているのか。主要な接続点は3つある。

第一の接続点は、Proctor → 鶴田・塚原のラインである。Proctorのagnotology概念を直接的に受容し、日本語で展開する経路である。この接続は最も強固であり、日本語圏の無知学の基盤を形成している。

第二の接続点は、Fricker → 佐藤邦政のラインである。認識的不正義の理論を日本語圏に導入する経路であり、無知学の「誰の知識が排除されるか」という次元を開いた。

第三の接続点は、Oreskes & Conway(2010)→ STS研究のラインである。『Merchants of Doubt(疑惑を売る人々)』で分析されたタバコ産業・化石燃料産業の戦略は、日本の公害研究と直接的に共鳴する。この経路を通じて、日本の公害史研究と英語圏の無知学が接続されている。

残された課題

日本語圏の無知学は急速に発展しているが、いくつかの構造的課題が残されている。

第一に、研究者の層の薄さである。現時点で無知学を主要な研究テーマとする研究者は、日本全体で十数名程度と推定される。学問分野の持続的な発展には、次世代の研究者育成が不可欠である。

第二に、実証研究の不足である。これまでの日本語圏の無知学研究は、理論の紹介と歴史的事例の分析が中心であった。現在進行形の「無知の生産」を実証的に検出し測定する方法論の開発は、今後の重要な課題である。

第三に、実践への橋渡しである。無知学の知見を、ジャーナリズム、教育、政策立案の現場でどのように活用するか。学術的な分析から社会実装への道筋は、まだ十分に開かれていない。

本研究室が取り組む「構造的無知の検出と対抗デザイン」は、この第三の課題——実践への橋渡し——に位置づけられる。

参考文献

Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance

Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press

原文を読む

無知学への招待——いかに「知らないこと」が作られるか

鶴田想人・塚原東吾 編. 明石書店

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科学史研究 第61巻303号 特集: アグノトロジー

日本科学史学会. 日本科学史学会

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現代思想 2023年6月号 特集: 無知学

青土社. 青土社

原文を読む

Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing

Fricker, M.. Oxford University Press

原文を読む

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