一般社団法人社会構想デザイン機構

方法論ノート: データ駆動の可視化はなぜ認識的不正義への介入になるか

ヨコタナオヤ
約11分で読めます

Florence Nightingaleのコクスコム図からData Feminismまで、データ可視化が「見えないものを見えるようにする」認識論的実践として機能してきた歴史を辿り、ISVDの統計ダッシュボードがなぜ構造的不可視性への介入たりうるかを論じる。

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このノートは社会構想デザイン研究室(ISVD-LAB-003)の方法論シリーズの一篇である。データ可視化を認識論的介入として位置づける理論的基盤を整理する。

何が起きているのか

データは中立ではない。何を数え、何を数えないかという選択自体が、社会のどの部分が可視化され、どの部分が不可視のままに置かれるかを決定する。Mimi Onuohaが2016年の『Library of Missing Datasets』で示したように、「欠けているデータセット」——警察による射殺の包括的記録、立ち退きの全国統計、トランスジェンダーに対する暴力の体系的データ——は偶然の産物ではなく、社会的・政治的な力学の帰結である。データの不在は、それ自体が権力の表現なのである。

この認識は、データ可視化の意味を根本的に変える。可視化とは、既に存在するデータを見やすくする技術的操作ではない。何を可視化の対象とするかという選択、どのような視覚的言語で表現するかという設計、そして誰がその可視化にアクセスできるかという配布——これらすべてがへの介入、あるいはその再生産に関わっている。

本ノートでは、データ駆動の可視化がなぜ、そしてどのように認識的不正義への介入となりうるかを、歴史的系譜と現代の理論的枠組みの双方から検討する。ISVDがe-Stat APIを用いた統計ダッシュボードの構築を「社会構想デザイン」の実践として位置づける根拠を明らかにすることが、本ノートの目的である。

背景と文脈

可視化の認識論的系譜——見ることは知ることである

データ可視化が社会変革の道具として機能しうるという認識は、現代のものではない。その系譜は少なくとも19世紀半ばまで遡ることができる。

Florence Nightingaleが1858年に作成したコクスコム図(polar area diagram)は、クリミア戦争における英国兵の死因を視覚化したものである。Nightingaleが示したのは、戦闘ではなく衛生環境の劣悪さが圧倒的多数の死因であるという事実であった。ここで重要なのは、この事実自体は統計表からも読み取れたということである。しかし、数値の羅列では政策決定者の認識を変えることができなかった。Nightingaleのコクスコム図は、統計的事実を視覚的衝撃に変換することで、衛生改革という政策介入を可能にした。可視化は、ここで認識論的な介入——見えていたはずなのに見えていなかったものを、見えるようにする——として機能したのである。

W. E. B. Du Boisは1900年のパリ万博において、黒人アメリカ人の人口統計・教育・経済状況を視覚化した一連のデータポートレートを出展した。Du Boisのデータポートレートは、政府統計という「客観的」な数値を用いながら、それを支配的な物語——黒人は劣等であるという人種主義的言説——に対する反証として再構成した。同じデータが、提示の仕方によって対抗的物語(counter-narrative)となりうることを実証した先駆的事例である。

Otto Neurathが1920年代から1940年代にかけて開発したIsotype(International System of Typographic Picture Education)は、統計データを絵文字的記号で表現するシステムであった。Neurathの目的は明確であった——統計的知識を、それまでアクセスできなかった労働者階級に届けること。Isotypeは「民主的統計」の実践であり、データリテラシーの階級的偏在を是正しようとする試みであった。

Edward Tufte『The Visual Display of Quantitative Information』(1983)において、データ可視化の美学と倫理を体系化した。Tufteの「データ・インク比」の原則——インクの大部分はデータ自体の表現に使われるべきである——は技術的な規範のように見えるが、その背後には「見ること(seeing)は知ること(knowing)の戦略である」という認識論的立場がある。不必要な装飾を排することで、データの構造を直接的に認知させる。Tufteにとって、良い可視化とは「正確に見せる」技術ではなく、「正確に知る」ための装置であった。

Nightingale、Du Bois、Neurath、Tufteという系譜が共有するのは、データ可視化を単なる表示技術ではなく、認識の構造を変えるための介入として捉える姿勢である。

現代のデータ正義論——権力・参加・反差別

この歴史的系譜を現代の理論的枠組みへと接続するのが、Catherine D'Ignazio & Lauren F. Klein『Data Feminism』(2020, MIT Press)と、Linnet Taylorのデータ正義論(2017)である。

D'Ignazio & Kleinは7つの原則を提示した。そのうち本ノートにとって特に重要なのは以下の3つである。第一に、権力を検証する(Examine Power)。データの収集・分析・可視化のあらゆる段階に権力関係が埋め込まれていることを認識し、それを批判的に検証する。第二に、権力に挑戦する(Challenge Power)。データ実践を通じて既存の権力構造に対抗する可能性を追求する。第三に、不可視の労働と不可視のデータを可視化する(Make Labor Visible / Elevate Emotion and Embodiment)。データ科学が「客観性」の名のもとに排除してきた経験、感情、身体性を再びデータ実践に組み込む。

Taylorは「データ正義とは何か」(What is data justice? The case for connecting digital rights and freedoms globally、2017)において、データ正義を三つの柱で定義した。可視性(visibility)——誰が可視化され、誰が不可視化されるか。関与(engagement)——データの収集・利用に誰が参加できるか。反差別(anti-discrimination)——データ実践が差別を再生産しないか。この三つの柱は、データ可視化が単なる技術的作業ではなく、正義に関わる実践であることを理論的に基礎づけるものである。

対抗地図学とコミュニティGIS

データ可視化を認識的介入として捉える実践は、対抗地図学(counter-mapping)の伝統にも見出される。先住民族による自らの土地の地図作成、コミュニティが主導する参加型GIS(Geographic Information System)、あるいは都市の貧困地域の住民自身による生活環境マッピング——これらの実践は、「誰が地図を描くか」という問いを通じて、空間的知識の生産における権力関係を問い直してきた。

公式の地図に描かれないものは、政策の対象にもならない。先住民族の慣習的土地利用は、国家の測量地図には記載されない。非正規居住地は、都市計画図から排除される。対抗地図学は、この「地図からの排除」が認識的不正義の空間的表現であることを示し、被排除者自身がデータを生成・可視化することで対抗する実践である。

構造を読む

Frickerの解釈的不正義とデータ可視化の接続

本ノートの中核的論点は、データ駆動の可視化がFrickerの言う解釈的不正義への介入として機能しうる、というものである。

解釈的不正義とは、ある経験を理解するための概念的資源(hermeneutical resources)が社会的に欠如している状態を指す。重要なのは、この「欠如」が偶然ではなく、社会の解釈的実践から特定の集団が構造的に排除されてきた結果であるということである。

データ可視化は、この解釈的不正義に対して少なくとも三つの経路で介入しうる。

第一に、 概念的資源の構築 である。散在する統計データを構造的に可視化することは、個別の経験に「社会的パターン」という概念的枠組みを与える行為である。個人の困難が「自己責任」ではなく構造的問題であることを認識するためには、個別の事例を超えたパターンが見える必要がある。統計ダッシュボードは、このパターン認識を可能にする概念的資源として機能する。

第二に、 証言的権威の補強 である。当事者の経験的知識が「エビデンスではない」として退けられるとき(証言的不正義)、統計的根拠による裏づけは、その証言に「聞くに値する」という権威を付加する。これは理想的な状態ではない——本来、当事者の証言はそれ自体で尊重されるべきである——が、現実の権力構造のなかで、データによる裏づけは認識的不正義を部分的に是正する手段となりうる。

第三に、 不在の可視化 である。Onuohaの「欠けているデータセット」が示したように、データの不在自体が政治的選択の結果である場合がある。データの不在を指摘し、「なぜこのデータが存在しないのか」を問うこと自体が、構造的不可視性への介入となる。

日本の文脈——e-Stat、RESAS、情報公開法の限界

日本においてデータ駆動の可視化を認識論的介入として実践するためには、固有の制度的文脈を理解する必要がある。

e-Statは政府統計のポータルサイトであり、APIを通じたデータアクセスを提供している。RESASは地域経済分析に特化した可視化ツールである。これらは公共データへのアクセスを一定程度民主化しているが、構造的な限界がある。

第一に、 集計単位の問題 である。政府統計の多くは都道府県・市区町村単位で集計されており、より小さなコミュニティの実態——たとえば特定の団地、特定の業種の非正規労働者、在留資格別の外国人住民——は見えにくい構造になっている。集計の粒度自体が、何が可視化されるかを規定している。

第二に、 情報公開法の限界 である。行政機関の保有する情報の公開に関する法律(1999年施行)は、請求に基づく情報開示を定めているが、「何が存在するか」を知らなければ請求できないという構造的制約がある。この制約は、Taylor(2017)の言うデータ正義の「可視性」の問題と直接関わる——存在を知らなければアクセスすらできない。

第三に、 データリテラシーの格差 である。e-Stat APIを利用できるのは、プログラミング能力とデータ分析の知識を持つ者に限られる。Neurathが1920年代に直面した問題——統計的知識の階級的偏在——は、デジタル化された形で依然として存在している。

ISVDの実践——構造の暴露としての統計ダッシュボード

ISVDがe-Stat APIを用いて構築する統計ダッシュボードは、上述の理論的枠組みにおいて、以下のように位置づけることができる。

ISVDのダッシュボードは、D'Ignazio & Kleinの「権力を検証する」原則の実装である。年齢別完全失業率や職種別平均賃金といった政府統計を可視化する際、ISVDはデータの単なる再表示ではなく、比較軸の設計——たとえば年齢層間の格差、性別による賃金差、経年変化の傾向——を通じて、構造的な不平等を読み取りやすい形に再構成する。この「再構成」こそが、社会構想デザインにおけるデータ可視化の核心である。

同時に、ISVDのコラムやガイドが統計ダッシュボードと併置されることで、Tufteの「見ること」とFrickerの「概念的資源の構築」が接続される。数値を見せるだけでなく、その数値が「何を意味するか」——どのような構造的問題を反映しているか——を言語化する記事が隣接することで、データは認識を変える力を持つ。Nightingaleのコクスコム図が衛生改革を可能にしたように、構造を露わにする可視化は政策的介入の起点となりうる。

しかし、ここで慎重であるべき点がある。D'Ignazio & Kleinが警告するように、データ可視化はそれ自体で正義を実現するものではない。可視化の設計者が無自覚のままデータに埋め込まれた偏見を再生産する可能性、可視化がサーベイランスの道具となる可能性、そして「可視化された」ことで問題が解決されたかのような錯覚を生む可能性——これらのリスクは常に存在する。ISVDの実践が認識的不正義への介入であり続けるためには、可視化の設計自体を批判的に検証し続ける姿勢が不可欠である。

→ 関連: 社会構想デザインの知的座標 | アグノトロジーから構造的不可視性への文献マップ

参考文献

参考書籍・資料

W. E. B. Du Bois's Data Portraits: Visualizing Black AmericaBattle-Baptiste, W. & Rusert, B. (eds.). Princeton Architectural Press

Diagram of the causes of mortality in the army in the EastNightingale, F.. コクスコム図(Polar Area Diagram)

International Picture Language: The First Rules of IsotypeNeurath, O.. Kegan Paul, Trench, Trubner & Co.

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