何が起きているのか
日本の社会政策研究は、1990年代末を境に根本的な転換を経験した。「1億総中流」という戦後コンセンサスが崩壊し、格差・貧困・社会的排除が学術的にも政策的にも中心課題となった。しかし、この転換は単なるテーマの変化ではない。社会を記述する枠組みそのものの転換であり、「何が問題であるか」の認識を規定する知的基盤の再編であった。
ISVDが記事の基本構成として採用している「何が起きているのか → 背景と文脈 → 構造を読む」という方法は、社会構造の可視化を通じた介入を目指すものである。これは学術的な社会政策研究とは異なるアプローチであるが、無関係ではない。本ノートでは、日本の社会政策研究の知的系譜を整理し、ISVDの方法論がどこに位置するのかを明らかにする。
背景と文脈
戦前の起源: 社会政策学会と大河内理論
日本における社会政策研究の制度的起源は、1896年に設立された社会政策学会に遡る。ドイツの講壇社会主義を範とし、資本主義の弊害を国家介入によって緩和するという問題意識が出発点であった。
戦後、この伝統を理論的に再構成したのが大河内一男である。大河内の「労働力保全説」は、社会政策を資本主義体制の維持に必要な労働力の再生産コストとして位置づけた。この枠組みは、社会政策を道徳的要請ではなく資本蓄積の論理から説明する点で理論的に洗練されていたが、同時に、政策の対象を「労働力」として抽象化することで、当事者の経験や生活の具体性を分析の射程外に置く傾向を内包していた。
「1億総中流」コンセンサスとその崩壊
戦後日本の社会政策議論を長く規定したのは、「1億総中流」という社会認識であった。内閣府「国民生活に関する世論調査」において、自らの生活水準を「中」と回答する割合が約9割に達した1970年代以降、日本社会には格差が小さいという前提が広く共有された。
この前提のもとでは、再分配政策の強化を求める議論は政治的にも学術的にも周縁化されやすい。「格差がない社会」では、格差を問題化する知的枠組み自体が不要とされるからである。ここに、アグノトロジー的な構造を読み取ることができる——格差の不可視化は、データの隠蔽によってではなく、「格差がない」という社会的合意の維持によって達成されていたのである。
橘木俊詔: 平等神話への最初の挑戦(1998)
この合意に正面から挑戦したのが、橘木俊詔の『日本の経済格差』(1998年、岩波新書)であった。橘木はジニ係数の時系列分析を通じて、日本の所得格差が1980年代以降拡大傾向にあることを実証的に示した。
この著作の意義は、データの提示そのものにとどまらない。「日本は平等な社会である」という暗黙の前提を学術的に問い直す回路を開いた点にある。橘木以前にも所得分配のデータは存在していたが、それを「格差の拡大」として読む枠組みが社会的に共有されていなかった。
橘木・大竹論争: 何を測っているのか
橘木の問題提起は、大竹文雄との論争を通じて精緻化された。大竹は『日本の不平等』(2005年)において、ジニ係数の上昇の相当部分は高齢化と世帯構造の変化——単身世帯の増加——による「見かけの格差拡大」であると主張した。
この論争は、社会政策研究における測定の政治性を浮き彫りにした。同一のデータから異なる結論が導かれるとき、問題は「どちらが正しいか」だけではなく、「何を測定の対象とするか」「どの分解方法を選ぶか」という問いに帰着する。人口学的分解(demographic decomposition)を優先すれば格差拡大は相対化され、世代内格差に焦点を当てれば深刻化が見える。測定枠組みの選択そのものが、問題の可視性を規定するのである。
権丈善一: 再分配の政治経済学
格差の存在が確認されたとして、なぜ再分配政策は十分に機能しないのか。この問いに政治経済学の視座から取り組んだのが、慶應義塾大学の権丈善一である。権丈の『ちょっと気になる社会保障』をはじめとする一連の著作、とりわけ『再分配政策の政治経済学』全7巻は、社会保障制度を「政策技術」としてではなく「政治過程の産物」として分析する枠組みを提示した。
権丈の核心的洞察は、社会保障制度の設計が経済合理性だけでなく政治的力学——利害関係者間の交渉、世論の変動、制度的経路依存——によって規定されるという点にある。制度が「非効率」に見える場合、それは設計の失敗ではなく、政治過程の帰結として合理的に説明できることが多い。
この視座はISVDの分析にとって重要な含意を持つ。社会問題の「構造を読む」とは、制度の技術的欠陥を指摘することではなく、その制度がなぜそのような形で存在しているのかを政治経済学的に理解することを含む。
宮本太郎: 福祉レジーム論の日本的展開
宮本太郎は、比較福祉国家論を日本の文脈に接続した研究者として最も重要な位置を占める。『福祉国家という戦略』(1999年)でスウェーデン福祉国家の戦略的性格を分析した宮本は、その後『福祉政治』(2008年)、『生活保障』(2009年、岩波新書)、『共生保障』(2017年、岩波新書)と著作を重ね、日本の福祉国家の位置づけと再構築の方向性を一貫して問い続けた。
宮本の知的基盤にあるのは、Esping-Andersenの福祉レジーム類型論である。Esping-Andersenは『The Three Worlds of Welfare Capitalism』(1990年)において、先進資本主義国の福祉国家を自由主義レジーム・保守主義レジーム・社会民主主義レジームの三類型に分類した。この枠組みのなかで日本は長く「ハイブリッド」として位置づけられ、明確な類型に収まらない存在であった。
宮本の貢献は、日本がハイブリッドであることを単なる分類上の例外として扱うのではなく、日本型福祉の固有の論理——企業福祉と家族福祉への依存、「雇用を通じた保障」の構造——を積極的に分析した点にある。『生活保障』では、雇用と社会保障を統合的に捉える「生活保障」概念を提示し、『共生保障』ではさらに「支える側と支えられる側の固定化を超える」という方向性を打ち出した。
国際的文脈: Pikettyと格差の再発見
国際的には、Thomas Pikettyの『21世紀の資本』(2013年)が、格差研究を学術的辺境から政治的中心へと押し上げた。Pikettyの r > g 命題——資本収益率が経済成長率を構造的に上回る——は、格差の拡大が政策の失敗ではなく資本主義の内在的傾向であることを示した。
Pikettyの貢献は理論的命題にとどまらない。World Inequality Database(WID.world)の構築を通じて、格差のデータインフラストラクチャを整備した点が重要である。データの不在が問題の不可視性を生むのだとすれば、データベースの構築そのものが介入行為である。
湯浅誠: 「すべり台社会」の可視化
学術研究とは異なる回路から格差・貧困を可視化したのが、湯浅誠である。『反貧困——「すべり台社会」からの脱出』(2008年、岩波新書)において湯浅が提示した「すべり台社会」概念は、日本の社会保障制度の構造的欠陥を鮮明に可視化した。
湯浅の分析によれば、日本の社会保障は雇用保険・社会保険・公的扶助の三層構造であるが、各層の間に「溜め」(バッファ)がない。正規雇用から脱落すると、雇用保険を経てすぐに生活保護の段階まですべり落ちる。中間的な受け皿が制度的に欠落しているのである。
「すべり台社会」の知的意義は、制度の個別的な不備ではなく、制度間の「隙間」の構造的性格を名指した点にある。これはFrickerの認識的不正義における解釈的不正義——経験を言い表す概念がないために問題が認識されえない——の実践的突破であった。「すべり台社会」という概念の創出によって、それまで個人の不運として処理されていた経験が、構造的問題として可視化されたのである。
構造を読む
社会政策研究とISVDの方法論的差異
上記の知的系譜を概観すると、社会政策研究は三つの方法論的特徴を持つことがわかる。
第一に、実証的測定 である。橘木のジニ係数分析、Pikettyの長期時系列データ、大竹の人口学的分解はいずれも、格差という現象を数値的に把握する試みである。
第二に、制度分析 である。権丈の政治経済学、宮本の福祉レジーム論、Esping-Andersenの類型論は、社会保障制度の構造と変動を分析する。
第三に、概念の創出 である。湯浅の「すべり台社会」、宮本の「生活保障」「共生保障」は、既存の枠組みでは捉えられなかった現実を新しい概念で可視化する。
ISVDの方法論は、この第三の特徴——概念の創出による可視化——に最も近い。しかし、決定的な違いがある。学術的社会政策研究における概念の創出が論文・著書という媒体を通じて同業の研究者に向けられるのに対し、ISVDの「構造を読む」は、データ可視化・記事構成・図解という情報デザインの手法を通じて、市民に向けた認識の変容を目指す。説明のための可視化ではなく、介入としての可視化 である。
橘木・大竹論争が示す「測定の政治性」
橘木・大竹論争は、ISVDの活動にとって方法論的に重要な教訓を含んでいる。同一の統計データから「格差は拡大している」「いや、それは見かけの変化である」という相反する結論が導かれたという事実は、データの提示がそれ自体で問題を解決しないことを示している。
EBPM(Evidence-Based Policy Making)の文脈でも同様の問題が生じる。エビデンスに基づく政策形成において、「何をエビデンスとして認めるか」「どのような分析枠組みでデータを解釈するか」は、しばしば政治的な選択である。ISVDがデータ可視化を行う際に「構造を読む」セクションを不可欠としているのは、データの提示だけでは不十分であり、その読み方——解釈枠組み——を同時に提供する必要があるという認識に基づいている。
Pikettyのデータインフラと ISVDのe-Stat活用
PikettyがWID.worldを通じて実現したのは、格差に関するデータの民主化であった。各国の研究者が長期時系列の所得・資産データにアクセスできるようになったことで、格差研究のエントリーバリアが劇的に下がった。
ISVDがe-Stat APIを用いて統計ダッシュボードを構築している試みは、規模は異なるが同一の論理に立脚している。日本の公的統計データは公開されているが、アクセスの容易性と解釈可能性において大きな障壁がある。データの存在とデータの可視性は同義ではない。ISVDのダッシュボードは、既に公開されているデータを「見える形」にするという意味で、可視化そのものを介入行為として位置づけている。
宮本の「共生保障」とISVDの構造的アプローチ
宮本が『共生保障』で提示した「支える側と支えられる側の固定化を超える」という方向性は、ISVDの活動の根底にある問題意識と共鳴する。社会構想デザインにおいて、社会問題の当事者は分析の「対象」であると同時に、構造変革の「主体」でもある。
ただし、ISVDのアプローチは宮本の議論とは異なる射程を持つ。宮本が福祉国家の制度設計を通じた「共生保障」を構想するのに対し、ISVDは情報環境の設計——何がどのように見えるか——を通じた構造的変容を志向する。制度変革と認識変革は相互補完的であるが、同一ではない。
残された問い
第一に、社会政策研究が蓄積してきた実証的知見を、ISVDの記事・可視化にどのように翻訳するかという実践的課題がある。学術論文の精密さと、市民向け情報デザインのアクセシビリティは、しばしばトレードオフの関係にある。
第二に、「すべり台社会」のように概念の創出が社会的認識を変えた成功事例がある一方で、概念が流通するうちに当初の分析的精密さが失われるリスクがある。ISVDが「構造を読む」で提示する分析枠組みが、単なるキャッチフレーズに矮小化されないための方法論的担保が必要である。
第三に、本ノートで扱った社会政策研究の系譜と、アグノトロジーから構造的不可視性への知的系譜がどのように接続されるかという統合的な課題がある。格差の不可視性(社会政策)と無知の生産(アグノトロジー)は、ISVDの方法論においては同一の現象の異なる側面である。この統合は、本研究室の次の課題として残されている。
→ 関連: 社会構想デザイン研究室 仮説概要 | 文献マップ: アグノトロジーから「構造的不可視性」へ






