京都大学医学部附属病院が脳腫瘍の手術で正常な脳の一部を誤って摘出したと発表した。医療事故調査制度は平成27年10月に始まり、令和8年4月末までの医療事故報告は累計3,772件、年平均にすると約356件である。制度検討段階の試算は年1,300〜2,000件だった。医師法21条による届出と制度への報告の関係を2年以内に見直すという規定は、期限を過ぎたまま10年たっている。
ざっくり言うと
- 医療事故報告は10年7か月で累計3,772件、年平均にすると約356件である
- 制度検討段階の試算は年1,300〜2,000件で、実績は下限の27.4%にとどまる
- 医師法21条との関係を2年以内に見直す規定は、期限切れのまま残っている
相談 20,213 件のうち約半分は医療機関からのもので、遺族等からの相談がそのまま報告に変わるわけではない。遺族等の求めに応じてセンターが相談内容を医療機関へ伝達したのは累計 253 件である。
何が起きているのか
京大病院の事案。制度への報告は10年半で3,772件である
NHKが2026年8月7日、京都大学医学部附属病院の発表を報じた。 前月に50代の女性患者の脳腫瘍の手術を行った際、腫瘍ではなく呼吸などの機能に関わる正常な脳の一部を誤って摘出する医療事故が起きた という内容である。患者は人工呼吸器が必要な状態になっている。
この種の事案を扱う仕組みが、医療事故調査制度である。第6次改正医療法(平成26年6月公布)にもとづき、平成27年10月に施行された。
施行からの累計が公表されている。令和8年4月末時点の医療事故報告は累計3,772件である。10年7か月なので、年平均にすると約356件になる。
背景と文脈
報告するかを決めるのは管理者。試算の年1,300〜2,000件には届いていない
報告するかどうかを決めるのは管理者である
制度の対象は法律で定められている。「当該病院等に勤務する医療従事者が提供した医療に起因し、又は起因すると疑われる死亡又は死産であって、当該管理者が当該死亡又は死産を予期しなかったもの」である。
条文の主語を見ておく必要がある。 予期していたかどうかを判断するのは、事故が起きた医療機関の管理者である。 第三者ではない。
過誤の有無は問わないという但し書きも置かれている。ミスがあったかどうかではなく、予期していたかどうかで線を引く設計である。
「予期していた」は3つの形で認められる
省令が、予期していたと認められる場合を3つ挙げている。医療の提供前に患者等へ死亡が予期されていると説明していた場合、診療録その他の文書等に記録していた場合、医療従事者等からの事情の聴取と医療安全管理委員会からの意見の聴取を行ったうえで管理者が予期されていたと認めた場合である。このいずれにも該当しないと管理者が認めたものが、制度の対象になる。
3つ目は、事後の判断で成立する。事情を聴いて、委員会の意見を聴いて、管理者が「予期されていた」と認めればよい。 報告するかどうかの入口に、当事者側の裁量が置かれている。
通知には歯止めも書かれている。一般的な死亡の可能性についての説明や記録ではなく、当該患者個人の臨床経過等を踏まえた説明および記録であることに留意すること。一般論では逃げられないという趣旨である。
試算は年1,300〜2,000件だった
制度を作るとき、どのくらいの件数を見込んでいたか。厚生労働省の資料に書いてある。
制度検討段階での試算は年1,300〜2,000件だった。施行後8か月の実績は、医療事故報告251件、相談1,250件、医療事故調査報告78件、センター調査依頼2件である。
厚生労働省は同じ資料で、試算のほうに注記を付けている。試算は制度の対象範囲が決まる前に、大学病院や国立病院機構の病院等から報告を受ける既存の制度の死亡件数をもとに作ったもので、リスクの高い患者の割合が高い大病院が前提であることや「管理者が予期しなかった死亡」以外も含まれていることから、試算の件数は多くなっていることに留意が必要と書いている。
10年たった今の実績は年平均約356件で、試算の下限1,300件の27.4%である。 試算が過大だったのか、報告が少ないのかは、この数字だけでは決まらない。 決まらないまま10年が過ぎた。
相談は20,213件、うち半分は医療機関から
制度に接触した件数はもっと多い。相談件数は累計20,213件で、内訳は医療機関9,446件、遺族等9,501件、その他・不明1,266件である。
約半分は医療機関からの相談である。 遺族からの相談と医療機関からの相談が、ほぼ同数で並んでいる。制度の窓口は、遺族の駆け込み先であると同時に、医療機関が判断に迷ったときの照会先でもある。
後者の実績も出ている。医療機関から医療事故の判断について相談を受け、センター合議を開催して医療機関へ助言したものは累計691件である。報告3,772件の18.3%にあたる数の合議が開かれている。
構造を読む
刑事の経路は制度の外にあり、両者の関係を見直す規定は期限切れのまま
刑事の経路は制度の外にある
厚生労働省の資料に、制度を説明する図と並べて、もう1本の経路が描かれている。
医師法21条にもとづく届出(検案した医師の判断)から、警察官による捜査、検察官の判断、送検、起訴または不起訴へ至る経路である。
制度への報告と、医師法21条による届出は、別の経路として並んでいる。 一方は再発防止のため、一方は捜査のためである。同じ死亡がどちらにも乗ることがあり、どちらにも乗らないこともある。
制度の側は、目的を明記している。本制度の目的は医療安全の確保であり、個人の責任を追及するためのものではない。
ヒアリングの扱いに但し書きがある
調査の方法にも、この2本立てが顔を出す。当該医療従事者のヒアリング結果は内部資料として取り扱い、開示しないこと(法的強制力がある場合を除く)とし、その旨をヒアリング対象者に伝えるとされている。
括弧の中が効いている。 法的強制力があれば開示される。 正直に話した内容が捜査や訴訟の側へ渡らない保証は、通知の書き方の範囲では与えられていない。
同じ通知は調査の対象者について当該医療従事者を除外しないこと、調査の過程において可能な限り匿名性の確保に配慮することとも書いている。当事者を調べつつ匿名性に配慮する、という両立を運用に委ねた形である。
法律は2年以内の見直しを命じていた
ここが、この制度の宙づりの中心である。
医療介護総合確保推進法の附則には、法の公布後2年以内に医療事故調査の実施状況等を勘案して、医師法21条の規定による届出およびセンターへの医療事故の報告、医療事故調査の在り方、センターの在り方について検討を加え、法制上の措置その他の必要な措置を講ずる旨の検討規定が設けられていた。
期限は平成28年6月24日である。そして、期限の前に厚生労働省はこう書いた。制度の在り方については、医師法第21条、医療行為と刑事責任との関係など、関係者の間に様々な意見がある状況であり、現時点においては、医療介護総合確保推進法附則で定められた平成28年6月24日の期限までには、法改正を行うことはできない。
法律が「2年以内に検討して措置しろ」と書いた項目が、期限内に処理されなかった。 理由として名指しされているのは、刑事責任との関係で意見が割れていることである。
代わりに置かれたのは運用の改善だった
法改正の代わりに、5つの運用改善が示された。支援団体等連絡協議会の制度的な位置づけ、院内での死亡事例を遺漏なく把握できる体制の確保の明確化、遺族等からの求めに応じてセンターが相談内容を医療機関に伝達することの明確化、支援団体や医療機関への研修の充実、医療機関の同意を得たうえでのセンターから院内調査報告書への確認・照会である。
3つ目の実績が出ている。遺族等の求めに応じて相談内容をセンターが医療機関へ伝達したものは累計253件である。遺族等からの相談9,501件に対して2.7%にあたる。
改善措置は入ったが、法律が検討しろと書いた論点は据え置かれたままである。 5つのうち4つは医療機関側の体制と支援に関するもので、刑事責任との関係には触れていない。
遺族が調べさせられる件数
センター調査の数字も見ておく。センター調査の依頼は累計329件で、内訳は遺族261件、医療機関68件。調査報告書の交付は累計229件である。
報告3,772件に対して依頼は8.7%、依頼のうち報告書が交付されたのは69.6%になる。 依頼の79.3%が遺族からである。 院内調査の結果に納得できなかった側が、外部の調査を求める形で使われている。
院内調査結果報告は累計3,372件で、報告された事案の89.4%である。
報告の95.1%は病院から
報告元の内訳も偏っている。医療事故報告3,772件の内訳は、病院3,586件、診療所185件、助産所1件である。病院が95.1%、診療所が4.9%、助産所が1件になる。
制度の対象は病院・診療所・助産所のすべてである。 10年半で助産所から1件、診療所から185件。 施設数の比率とは合っていない。院内に調査を組める体制があるかどうかが、報告の入口に効いている可能性がある。
何を数えれば、次の判断ができるか
いま公表されているのは、報告・相談・調査の件数である。判断の材料として足りないものが2つある。
1つは、報告されなかった死亡の数である。制度の対象は「管理者が予期しなかった死亡」で、予期していたと管理者が認めれば対象外になる。 対象外にした件数は、どこにも集計されない。 試算の年1,300〜2,000件が過大だったのか、報告が少ないのかは、この数字がないかぎり決まらない。
もう1つは、刑事の経路に乗った件数である。医師法21条による届出、捜査、起訴の件数を、制度への報告と突き合わせた統計は公表されていない。 2つの経路が同じ死亡をどう分け合っているかが分からないまま、両者の関係を見直す規定だけが期限切れで残っている。
「政策が届かない層」の共通構造(このサイトの記事)で扱ったとおり、制度が用意されていることと使われていることは別である。この制度の場合、使われている件数は分かる。使われなかった件数が分からない。
生活困窮の相談は10年で345.6万件(このサイトの記事)でも同じ形が出た。制度に入ってきた人の数は数えられ、入らなかった人の数は数えられない。 入口を当事者の判断に委ねた制度では、この非対称がそのまま評価の限界になる。
この記事で使った統計の出典
- 1厚生労働省 医政局総務課医療安全推進室「医療事故調査制度の概要について」(平成27年10月施行) 出典を開く
- 2日本医療安全調査機構「医療事故調査制度の現況報告(4月)」(令和8年4月末時点) 出典を開く
- 3厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(医療法第6条の10)(平成27年10月施行) 出典を開く
- 4厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(平成27年10月施行) 出典を開く
- 5厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(医療法施行規則)(平成27年) 出典を開く
- 6厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(平成27年5月8日医政発0508第1号)(平成27年) 出典を開く
- 7厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(平成28年5月末時点) 出典を開く
- 8厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(平成28年) 出典を開く
- 9厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(平成27年) 出典を開く
- 10厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(通知)(平成27年) 出典を開く
- 11厚生労働省「医療事故調査制度の概要について」(医療介護総合確保推進法附則)(平成26年6月25日公布) 出典を開く
参考書籍
- 『医療事故と刑法』(外部サイト、新しいタブで開きます)(甲斐克則、成文堂)。医療行為と刑事責任の関係を刑法学の側から論じた研究書。法律が2年以内に検討しろと書いた論点が、なぜ10年動かないのかを考えるのに使える。
参考文献
医療事故調査制度の概要について — 厚生労働省 医政局総務課医療安全推進室 (2016). 厚生労働省
医療事故調査制度の現況報告(4月) — 日本医療安全調査機構(医療事故調査・支援センター) (2026). 日本医療安全調査機構
医療事故調査制度について — 厚生労働省 (2026). 厚生労働省
京大病院で医療事故 脳腫瘍の手術で誤って正常な脳の一部摘出 — NHK (2026). NHK NEWS WEB

