ざっくり言うと
- 2026年4月に支給停止調整額が51万円から65万円に引き上げられ、約20万人が新たに全額受給可能になると試算される
- 恩恵を受けるのは「高年金かつ高賃金」の層に集中しており、65歳以上の就業者の大多数には影響がない
- 制度廃止は年金財政を悪化させ将来世代の給付水準を下げる逆説があり、改正は「廃止に向けた第一歩」ではなく現実的な落とし所として機能する
何が起きているのか
2026年4月に在職老齢年金の基準額が51万円から65万円に引き上げられ、高齢者の就労促進策として報じられたが、受益者は約20万人にとどまる
2026年4月1日、在職老齢年金の支給停止調整額が 51万円から65万円に引き上げられた。これは 2025年6月成立の年金制度改正法 に基づく施行で、法案成立時(2025年6月)の試算では62万円だったが、その後の賃金変動率の反映により施行時に65万円となった。
在職老齢年金とは、60歳以上で厚生年金保険に加入しながら老齢厚生年金を受給する場合に、賃金と年金の合計が一定額を超えると年金の一部または全額を停止する仕組みである。停止されるのは老齢厚生年金(報酬比例部分)のみで、老齢基礎年金(国民年金部分)は全額受給が継続される。
政府の広報は「もっと働きたい高齢者の就労意欲を妨げないため」と説明し、高齢者就労促進の文脈で改正を位置づけた。だが数字を追うと、別の像が浮かぶ。
65歳以上で在職している年金受給権者は約308万人、そのうち旧基準(51万円)で支給停止対象だった人は約50万人(約16%)。今回の基準額引き上げで新たに全額受給可能になる人数は約20万人と試算される。つまり全体の308万人のうち恩恵を受けるのは約6%にとどまる。
「高齢者が働きやすくなった」という見出しの背後に、大多数の高齢就業者には何も変わらないという現実がある。
背景と文脈
支給停止の仕組みと計算式、「働き損」の実態、そして恩恵を受ける層が高収入・高年金層に偏っている構造
支給停止の計算式と「働き損」の実態
在職老齢年金の支給停止額は以下の式で計算される。
停止額(月額)=(基本月額 + 総報酬月額相当額 − 支給停止調整額)÷ 2
標準報酬月額 を含む総報酬月額相当額と年金月額の合計が調整額を超えると、その超過分の半分が年金から差し引かれる仕組みだ。賃金自体は減らないが、「追加で稼いだ分の半分しか実質収入として増えない」状態になる。これがいわゆる「働き損」と呼ばれる構造である。
ただし、この「働き損」が実際に誰に発生しているかを確認する必要がある。
老齢厚生年金受給権者の平均月額は146,429円(男性平均166,863円、女性平均102,708円)。旧基準(51万円)で支給停止になるには、この男性平均受給額に月収を加算して51万円を超える必要がある。計算すると月収48万円以上が必要だ。65歳以上の高齢就業者の多くはパートや再雇用で月20〜30万円台であることを踏まえると、大多数はもとから停止対象外だった。
恩恵を受ける層の実像
今回の改正(65万円への引き上げ)で最も恩恵を受けるのは、老齢厚生年金が比較的高額(月15〜20万円台)かつ賃金も高い(月40〜50万円台)層である。現役時代から比較的高い標準報酬月額を長期間積み上げてきた、元大手企業のホワイトカラーや専門職がその中心になる。
みずほリサーチ&テクノロジーズ の分析によれば、就労抑制が発生しやすいのは年金受給額と賃金の組み合わせが「ちょうど基準付近に集中する」層であり、低中所得の高齢就業者には就労抑制効果自体がほぼ発生していない。
「働き損解消」というフレーミングの実態は、高収入・高年金層への追加給付に近い。
支給停止調整額は2022年度の47万円から毎年の賃金変動率・物価変動率で自動改定されてきたが、今回は法改正による大幅引き上げという点で異なる。この変化の意味は「構造を読む」で改めて検討する。
高齢者就業の実態
65歳以上の就業者数は930万人で21年連続増加、過去最多。就業者総数に占める65歳以上の割合は13.7%に達し、就業率は25.7%(65〜69歳:53.6%、70〜74歳:35.1%、75歳以上:12.0%)。日本はすでにOECD加盟国内で韓国・アイスランドに次ぐ上位の「高齢就労大国」である。
また、就業希望者のうち3割以上が「年金が減らないよう就労時間を調整」していると回答している。この3割超の人のうち、今回の改正で実際に行動変容が起きるのは基準付近に賃金・年金の組み合わせが集中する一部にとどまる。
構造を読む
廃止論と財政悪化の逆説、就労抑制効果の研究知見、「エイジレス社会」フレームが覆い隠す現実
廃止論が直面する財政の逆説
在職老齢年金の廃止論は、経団連(2024年9月に「廃止へ、まず対象縮小」を主張)をはじめ、制度見直しの文脈で繰り返し浮上してきた。廃止推進論の根拠は「年金は本人が積み立てたもので、働いているから減らすのは不公平」という論理だ。
しかし廃止した場合の財政インパクトは大きい。2024年財政検証 によれば、65歳以上の在職老齢年金を廃止した場合、2030年度に約5,200億円、2040年度に約6,400億円の給付増が見込まれる。さらに廃止により報酬比例部分の所得代替率が維持ケースより0.5ポイント低下し、マクロ経済スライドの調整期間が延長される。
廃止は「今の高年金・高賃金層」を豊かにするが、「将来世代の実質的な年金水準」を下げる。社会保障制度の持続可能性を巡るトレードオフが、廃止論の正面に立ちはだかる。
さらに指摘しておくべき点がある。廃止論の背後には「停止された年金にも所得税・住民税が課される」という二重課税的な問題意識がある。年金が停止されても、本来受給できたはずの年金額に対応する保険料は既に納付済みである。「積み立てたものを働いているから返さない」という不公平感は、感情的にも論理的にも理解できる。しかし制度全体の設計として、どの世代・所得層の年金水準を優先するかの判断は政治的な価値判断を含む。現行の「引き上げ」という着地は、廃止コストと改正コストのバランスを取った現実解と位置づけられる。
就労抑制効果の研究知見
制度の就労抑制効果については、研究によって知見が分かれる。
RIETI の研究(2013年)は、1985年の制度廃止と2002年の復活という日本の実際の経験を分析し、廃止が労働供給を促進した可能性を示唆したものの、復活による就労抑制効果は必ずしも確認されなかったと報告している。同研究機関の別の分析では、就労効果が最も大きいのは支給開始年齢の引き上げであり、在職老齢年金の見直しよりも効果が大きいとされる。
ニッセイ基礎研究所(2024年)のシミュレーションでは、廃止が高所得層の就業意欲を高めるが、一貫した年金繰下げ増加はみられないという結果が示されている。制度の就労抑制効果は実在するが、その規模と対象層は限定的である可能性が高い。
今回の改正(基準額65万円への引き上げ)は、廃止ではなく「就労抑制が発生している層の一部を解消する」という現実的な着地点として設計されている。
もう一つ見落とされがちな視点がある。国際比較の観点から見ると、アメリカは2000年に完全受給年齢到達後の在職老齢年金を廃止しており、イギリスやドイツには就労と年金の同時受給を制限する仕組み自体が存在しない。日本が制度を維持し続けている背景には、年金財政の持続可能性への懸念と、制度廃止に伴う高所得者優遇批判への政治的感度がある。廃止に向けた段階的縮小として今回の改正を評価する見方もあるが、改正の受益者像を見ると「段階的縮小」よりも「現実的な調整」という性格が強い。
「エイジレス社会」フレームが覆い隠すもの
政府は「エイジレス社会の実現」を掲げ、高齢者の就労促進を労働力不足への処方箋として位置づけてきた。この文脈では、在職老齢年金の見直しは「働く意欲のある高齢者を応援する」施策として語られる。
だが、この語り方には見えにくくなる部分がある。
第一に、65歳以上の就業者930万人のうち、多数はパートや短時間再雇用で月20〜30万円台の賃金水準にある。この層は旧基準でも新基準でも停止対象外であり、制度改正の恩恵を受けない。「高齢者の就労促進」という目的に対して、今回の改正が届く対象は極めて限定的だ。
第二に、就労促進政策が高齢者を労働市場に引き留める効果を強めるほど、体力的・健康的に過重な就労を余儀なくされる高齢者が増えるリスクがある。年金制度の外側にある就労環境の整備が、制度改正と同等以上に重要になる。
第三に、 国立国会図書館 の調査(2025年2月)が整理するように、在職老齢年金制度の廃止・見直しをめぐる議論は常に「誰が得をするか」の問題を含んでいる。今回の改正でも、所得・年金水準の高い層への追加給付という性格を帯びていることは認識する必要がある。
制度改正の受益者は「年金も賃金も高い一部の高齢者」だ。日本社会全体の高齢者就労促進という目的に対しては、就労環境の整備、健康管理支援、年金受給開始年齢の柔軟な選択肢拡大が本筋となる。基準額の引き上げはその一要素にすぎず、「働き損解消」という看板の下に隠れた受益者の偏りを見落としてはならない。
関連ガイド
- NPO向け:社会保障制度の活用と連携の基本(年金・医療・介護の仕組みを実務に活かす方法)
関連コラム
- 年金制度の世代間格差:「払い損」は本当か(世代別の給付・負担倍率の実態)
参考書籍
在職老齢年金制度と年金改正の背景をさらに深く理解するために、以下の書籍を推薦する。
『年金制度改正の解説 2025年(令和7年)』(社会保険研究所、2025年)は、2025年6月成立の年金制度改正法の公式解説書。在職老齢年金基準額引き上げ、被用者保険の適用拡大、遺族年金の見直しなどを網羅した実務解説書として、制度の詳細を確認する際の一次資料となる。
『2025-2026年版 図解わかる年金』(中尾幸村・中尾孝子、新星出版社)は、2025年4月1日現在の制度に対応した実務解説書。在職老齢年金の計算例や繰下げ受給との関係をわかりやすく解説しており、自身の受給シミュレーションに活用できる。
参考文献
令和8年4月分からの年金額等について — 日本年金機構. 日本年金機構
年金制度改正法が成立しました(2025年6月) — 厚生労働省. 厚生労働省
在職老齢年金制度について(社会保障審議会年金部会 資料2) — 厚生労働省. 厚生労働省
令和6(2024)年財政検証結果 — 厚生労働省. 厚生労働省
令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況 — 厚生労働省. 厚生労働省
令和7年版高齢社会白書 — 内閣府. 内閣府
在職老齢年金制度の労働阻害効果の再検討:日本における廃止・復活の経験から — RIETI. RIETI
在職老齢年金制度をめぐる課題(調査と情報 ISSUE BRIEF No.1308) — 国立国会図書館調査及び立法考査局. 国立国会図書館