「一本化」されない一本化 — マイナ保険証が映すデジタル行政の構造問題
2024年12月、従来の健康保険証が廃止されマイナ保険証への一本化が始まった。カード保有率81.2%、利用率63.2%。しかし医療機関の約9割でトラブル発生、85歳以上の利用率は約24%——「一本化」の名が覆い隠す構造を分析する。
何が起きているのか
2024年12月2日、従来の健康保険証の新規発行が停止され、マイナンバーカードによるオンライン資格確認を基本とする仕組み——いわゆる「マイナ保険証」への一本化が始まった。
2023年6月に成立した改正マイナンバー法に基づく措置である。経過措置として、2024年12月1日以前に発行された旧保険証は最長2025年12月1日まで有効とされた。2025年12月2日以降は、マイナ保険証または資格確認書のいずれかが医療機関の受診に必須となる。
デジタル庁によれば、2026年1月末時点のマイナンバーカード保有枚数は約1億174万枚(保有率81.2%)。マイナ保険証の利用率は2025年12月に63.24%に達した。旧保険証の有効期限到来で前月比13.76ポイント急増した形である。
数字の上では普及は進んでいる。しかし「一本化」の実態は、この数字が示す以上に複雑である。
背景と文脈
医療現場で起きていること
保団連が2025年に全国約4万9,775医療機関に実施した調査(回答9,741件)によれば、約9割の医療機関で何らかのトラブルが発生している。約6割が窓口業務の負担増を実感しているという。
トラブル内容は多岐にわたる。氏名・住所の漢字が「●」で表示される事例が64.2%の医療機関で発生。転居等による資格「無効」表示が37.9%、電子証明書の有効期限切れが30.6%を占める。マイナ保険証のエラーにより「いったん10割(全額自己負担)」を患者に求めたケースは1,894件(12.7%)に上った。
さらに深刻なのが、2025年度に電子証明書の更新が必要なマイナンバーカードが2,768万件に達する点である。更新忘れによるトラブルの大量発生が懸念されている。
85歳以上の利用率24%——デジタルデバイドの顕在化
マイナ保険証の利用率には顕著な世代間格差がある。85歳以上の利用率は約24%にとどまる。カード保有率は50歳以上で80%超、75〜79歳では90%以上と高いにもかかわらず、実際のオンライン利用には大きな障壁が存在する。
施設入所者のカード紛失リスク、認知症患者の暗証番号入力の困難さ、そもそもカードリーダーの操作ができないという物理的な障壁——これらはシステム設計の段階で予見可能な問題であった。
厚生労働省はマイナ保険証での受診が困難な「要配慮者」に対し、申請により資格確認書を無償交付する制度を設けている。しかし「一本化」を掲げながら別の証明書を発行するという構造は、制度の自己矛盾を示している。
9種類の「証明書」が混在する「一本化」
しんぶん赤旗の報道(2025年8月)によれば、マイナ一本化後の保険医療に関する「証明書」はマイナ保険証、資格確認書、資格情報のお知らせ、限度額適用認定証など9種類が混在する事態になっている。「一本化」の名目とは裏腹に、現場の書類は煩雑化しているとの指摘がある。
国際比較——デジタルID×医療の先行事例
| 国 | 人口 | 普及率 | 特徴 | 課題 |
|---|---|---|---|---|
| エストニア | 130万人 | ~100% | PKI基盤+X-Road 段階的に25年構築 | 小国モデルの拡張性 |
| 韓国 | 5,200万人 | ~100% | 住民登録番号で 物理保険証不要 | 3,500万件 情報漏洩(2011年) |
| 台湾 | 2,400万人 | ~99% | ICカード+クラウド 保険証番号印字あり | デジタル化への 過度な依存 |
| 日本 | 1.25億人 | ~81% | マイナカード+ オンライン資格確認 | デジタルデバイド トラブル多発 |
エストニアは2008年に国民健康情報システムを稼働させ、ほぼ100%の電子化を達成している。しかしその成功は、人口約130万人の小国で2002年からデジタルID基盤を20年以上にわたり段階的に構築してきた経緯に支えられている。
韓国は住民登録番号で医療保険資格を確認するため物理的な保険証が不要だが、2011年に約3,500万件の住民登録番号が流出するという深刻なセキュリティ事故を経験している。番号の変更が原則不可能なため、被害が長期化した。
台湾の全民健康保険カードにはICチップに情報を格納しつつ保険証番号が印字されており、トラブル時の代替手段がある。日本のマイナ保険証には保険証データが印字されておらず、トラブル時の代替手段が限定的である点が対照的である。
構造を読む
「効率化」の名のもとで——コスト削減と脆弱性の引き換え
政府はマイナ保険証への一本化により保険証発行コストを年間約100億円削減できると試算している。しかしカードリーダーの整備費用、医療機関の窓口対応コスト、トラブル対応の人的コスト、そして資格確認書の発行コストを含めた総コストの検証は十分に行われていない。
効率化と単一障害点化は表裏一体である。カードの紛失・故障・期限切れ、システム障害が発生した場合、保険医療へのアクセスが一括して途絶するリスクは、紙の保険証時代には存在しなかった。
選択アーキテクチャとしてのマイナ一本化——オプトアウト方式の問題
リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンは『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』で、制度設計における「デフォルト(初期設定)」の力を明らかにした。年金の自動加入制度がその典型であり、デフォルトをオプトイン(自ら申し込む)からオプトアウト(自ら外れない限り加入)に変えるだけで加入率が劇的に向上する。
マイナ保険証への一本化は、事実上のオプトアウト方式である。従来の保険証を廃止し、マイナ保険証をデフォルトに設定した。カードを持たない・使えない人には「資格確認書」という代替手段が用意されているが、それは「自ら申請しなければ得られない」オプトイン型の救済措置にすぎない。
ナッジ理論が示すのは、デフォルトの設計が人々の行動を強力に方向づけるということである。しかし同時にセイラーらは、ナッジが有効に機能する条件として「選択の自由が保障されていること」と「透明性があること」を強調している。マイナ保険証の場合、旧保険証の廃止という形で選択肢そのものが狭められており、純粋なナッジというよりも強制に近い構造になっている。
デジタルリテラシーが高い現役世代にとっては合理的な移行であっても、認知機能の低下した高齢者や、行政手続きへのアクセスが困難な人々にとっては、デフォルトの変更が排除として機能しうる。選択アーキテクチャの設計には、「誰にとってのデフォルトか」という問いが不可欠である。
誰のための「一本化」か
マイナ保険証の導入は、医療DXの基盤整備として長期的には意義がある。オンライン資格確認による処方歴・特定健診情報の共有は、医療の質向上に寄与しうる。
しかし現時点で問われるべきは、移行のプロセスと速度の設計である。約2割のカード未保有者、85歳以上の利用率24%、医療機関の9割でのトラブル——これらは制度設計の段階で予見可能な問題群であり、「まず一本化ありき」の政策が生み出した構造的な負荷である。
デジタル化の恩恵は、それを使いこなせる人々に集中し、使いこなせない人々には負担として顕在化する。問われるべきは「一本化したかどうか」ではなく、「誰一人取り残さないデジタル化をどう設計するか」という問いである。
デジタルデバイドと社会的包摂の関係については、「日本のデジタルデバイド——世代・地域・所得が生む情報格差の構造」も参照されたい。
参考文献
マイナンバーカードの普及に関するダッシュボード
デジタル庁
原文を読む
マイナ保険証についてのお知らせ
厚生労働省
原文を読む
マイナ保険証によるトラブル調査結果
全国保険医団体連合会
原文を読む
Estonia's e-Health System
e-Estonia
原文を読む
改正マイナンバー法の概要
デジタル庁
原文を読む
マイナ保険証 9種類もの書類が混在
しんぶん赤旗
原文を読む
NUDGE 実践 行動経済学 完全版
リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン. 日経BP
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