ざっくり言うと
- 厚労省研究会は2025年1月にガイドライン策定を提言したが、高市政権の規制緩和路線により法案提出は見送り
- Job総研2026年調査で63.8%が勤務時間外連絡の受信経験、そのうち48.4%が不満を感じながら義務感で対応
- Eurofound調査では権利保護ポリシーのある企業で職務満足度が2倍、仕事と生活の調和は92%対80%
何が起きているのか
世界で法制化が進む「つながらない権利」が日本では法案提出見送りに
勤務時間外の業務連絡を拒否する権利—— 「つながらない権利」(Right to Disconnect) が、世界各国で法制化されている。フランスが2017年に先鞭をつけ、ポルトガル(2022年)、ベルギー(2023年)、オーストラリア(2024年)が続いた。
日本ではどうか。厚生労働省の「労働基準関係法制研究会」が2025年1月に報告書を公表し、「つながらない権利」に言及した。報告書は、勤務時間外の連絡について労使で社内ルールを検討し、 ガイドライン策定を進めるべき と提言した。
しかし、法律による義務化は実現しなかった。2025年12月、厚生労働省は2026年通常国会への労働基準法改正案の提出を 見送る と発表した(日本経済新聞 2025年12月報道)。政権の労働時間規制に対する方針転換が背景にあるとされる。法案提出の見通しは最短で2027年通常国会だ。
その間も、労働者のメンタルヘルスは悪化し続けている。
背景と文脈
精神疾患労災の急増と勤務時間外連絡の実態データ
データが示す「常時接続」の代償
精神障害による労災支給決定件数は、2024年度に 1,057件 と初めて1,000件を超え、過去最多を6年連続で更新した。うち自殺・自殺未遂は89件。主因はパワーハラスメント(224件)と仕事量の大きな変化(119件)である。
Job総研が2026年1月に実施した調査(社会人328人対象)は、勤務時間外連絡の実態を可視化している。
- 勤務時間外に職場から連絡が来た経験: 63.8%
- そのうち不満を感じている: 48.4%
- 連絡に応じた場合の心理: 「義務を果たした」38.1%、「プライベートが削られた」36.0%、「ストレスを感じる」33.8%
- 応じなかった場合: 「後から連絡内容が気になる」38.7%
「応じてもストレス、応じなくても不安」——この二重拘束が、「つながらない権利」の必要性を当事者レベルで示している。
「過重労働ではない」は本当か
日本の年間平均労働時間は 約1,627時間(2024年)。OECD平均(1,736時間)を下回り、数字だけを見れば「日本人は働きすぎではない」という印象を受ける。
しかし、この数字にはパートタイム労働者が含まれており、実態を過小に映す。長時間労働の実態をより正確に示す指標が、週50時間以上働く雇用者の割合だ。日本は 21.9%。イギリス12.8%、アメリカ11.7%、フランス7.8%を大きく上回る。
さらに、勤務間インターバル制度(終業から次の始業まで一定時間を空ける制度)を導入している企業は わずか5.7%。政府の目標値15%に遠く及ばない。制度を「知らなかった」企業も18.7%に上る。
「つながらない権利」が議論される背景には、法制度が労働者の休息を保障する仕組みとして機能していない という構造的な問題がある。
構造を読む
法制化を阻む三重の壁(政治・文化・中小企業)と海外モデルの示唆
海外3モデルの比較——罰則の有無が実効性を左右する
| 国・地域 | 施行年 | 義務の主体 | 罰則 | 実効性 |
|---|---|---|---|---|
| 日本 | 未法制化 | ガイドラインのみ | なし | 低 |
| フランス | 2017 | 労使交渉義務 | なし | 低 |
| ポルトガル | 2022 | 雇用主の義務 | 最大約1万€(罰金) | 中 |
| オーストラリア | 2024 | 労働者の権利 | 個人最大約190万円 | 高 |
Eurofound 2023年調査: 権利保護ポリシーのある企業では職務満足度が2倍、仕事と生活の調和が92%対80%。
先行する3カ国の制度設計は、実効性に大きな差を生んでいる。
フランス(2017年施行): 従業員50人以上の企業に、デジタルツールの利用条件について労使交渉を行う義務を課した。合意に達しなくても「憲章」の作成は必要。ただし 罰則規定がない。施行1年後には「法律が曖昧すぎる」との批判が出た。一方、2018年にはRentokil Initial社に対し、元従業員の「常時接続可能」要求を理由に6万ユーロの支払いが命じられており、司法的な実効性は一定程度機能している。
ポルトガル(2022年施行): 従業員10人以上の企業に、就業時間外の連絡を 禁止する義務 を課した。フランスと決定的に異なるのは、「労働者の権利」ではなく 「雇用主の義務」 として構成した点だ。違反は「重大な行政違反」として罰金(最大約1万ユーロ)が科される。
オーストラリア(2024年8月施行): 就業時間外の連絡を「監視・閲覧・回答」しない権利を労働者に付与。Fair Work Commissionの命令に違反した場合、個人で最大 18,780豪ドル(約190万円)、法人で最大93,900豪ドル(約950万円)の罰則が設けられた。
Eurofoundの2023年調査は、権利保護ポリシーがある企業とない企業で明確な差を示している。「非常に高い職務満足度」の割合が 2倍、仕事と生活の調和を感じる割合が 92%対80% であった。
日本で法制化が進まない三つの壁
第一の壁: 政治的方針の転換。高市政権は「働いて働いて」のスローガンに象徴されるように、労働時間規制を強化ではなく緩和する方向を志向している。成長戦略会議が主導権を握り、厚労省の規制強化路線と衝突した結果、法案提出は見送られた。
第二の壁: 「空気」と忖度の文化。厚生労働省の担当者自身が「国内で法制化が進まない理由を分析できていない」と認めている。高度経済成長期から続く「仕事とプライベートの境目が曖昧でも抵抗感が薄い」という文化的規範が、制度化の要請を弱めている。「連絡しても返事が来るから問題ない」という認識は、「返事をしないと評価に響く」という暗黙の圧力と表裏一体である。
第三の壁: 中小企業の実態。勤務間インターバルの導入率が5.7%にとどまる現状が示すとおり、大企業に比べて中小企業は労務管理の制度整備が大幅に遅れている。つながらない権利を法制化しても、業務の属人化と慢性的な人手不足を抱える中小企業で実効的に運用できるかは未知数だ。
「柔軟な働き方」とのトレードオフ
つながらない権利に対する懐疑論で最も根強いのが、「柔軟な働き方を好む人にとっては足かせになる」という指摘である。テレワーカーの中には、18時以降にメールを処理し、翌朝ゆっくり出勤する働き方を選択する人もいる。一律の時間外連絡禁止は、こうした柔軟性を損なう可能性がある。
しかし、この議論には注意が必要だ。「柔軟に働くことを選べる人」と「柔軟に働かされる人」は異なる。管理職が裁量で夜間にメールを送る行為は、受信者にとっては「返信しなければならない」という圧力になりうる。問題の本質は、時間外連絡の可否ではなく、 「連絡に応じなくても不利益を受けない」という保障の有無 にある。
ポルトガルやオーストラリアの制度設計が示唆に富むのはこの点だ。両国とも「緊急時の例外」を認めており、一律禁止ではなく「原則拒否権+例外」という構造を採用している。柔軟性と保護は、制度設計次第で両立可能なのである。
2024年度の精神障害労災1,057件という数字は、労働者の休息が制度的に保障されていない現状の帰結だ。法律で守らなければ休めない。その事実を「個人の問題」として片づけるのか、「構造の問題」として制度設計に取り組むのかが問われている。
日本が採るべきモデルは、フランスの「交渉義務だが罰則なし」ではなく、ポルトガルの「雇用主の義務+罰則」に近いものであるべきだろう。文化的な「空気」は法律では変えられない。しかし、「応じなくても不利益を受けない」という法的保障があることで、個人が「空気を読まない」選択をする余地が生まれる。
労働基準法の全体像と2026年改正のポイントについては『これ一冊でぜんぶわかる! 労働基準法 2025〜2026年版』(ナツメ社)が実務的な解説を提供している。社会保険制度の全体像については「106万円の壁撤廃の構造」を、労働時間規制の文脈については「非正規雇用2100万人時代の構造転換」も参照されたい。
参考文献
労働基準関係法制研究会 報告書 (2025年)
令和6年度 過労死等の労災補償状況 (2025年)
2026年 勤務時間外連絡の実態調査 (2026年)
Right to disconnect: Implementation and impact at company level (2023年)
Right to Disconnect (2024年)
勤務間インターバル制度に関する実態調査 (2024年)
