このノートは静かなまちプロジェクトの制度分析パートである。規制の縦割りについては 規制の構造分析(このサイトの記事)、基準そのものの水準については WHO 2018環境騒音ガイドラインと日本の環境基準(このサイトの記事) を参照されたい。
何が起きているのか
2026年9月1日、生活道路の法定速度が引き下げられた。60km/hから30km/hである。
対象は、中央線も車両通行帯もない一般道路にあたる。主に地域住民の日常生活に利用されるような道路のことと説明されている。逆に、道路標識又は道路標示による中央線又は車両通行帯が設けられている一般道路と、道路の構造上又は柵その他の工作物により自動車の通行が往復の方向別に分離されている一般道路は従来どおりになる。
規制標識の設置を前提としない点が、この改正の特徴である。標識がなくても、道路の形が条件に当たれば30km/hが法定速度になる。全国の生活道路に、同じ日に一度に効いた。
目的も書かれている。警視庁の説明にあるのは、交通の安全と円滑を図り、ドライバー、同乗者、歩行者、自転車の方々を守るである。
騒音への言及は、警察庁・警視庁いずれの説明にもない。
背景と文脈
速度と音は、式で結ばれている
道路交通騒音の予測には、道路交通騒音調査研究委員会がまとめたモデルが使われる。国土技術政策総合研究所の資料に、その基本式が載っている。
自動車走行騒音の A 特性音響パワーレベル LWA [dB] は次式で計算する。LWA = a + b log10 V + C。Vは走行速度、aは車種別の定数、bは速度依存性を表す係数である。
そのbの値も定められている。速度依存性を表す係数 b の値は、各車種とも定常走行区間で 30、非定常走行区間で 10 とする。
式の形が意味するところは単純である。速度の対数に比例して音が上下する。速度が下がれば音は下がる。
ただし、生活道路がどちらの区間に当たるかは確かめておく必要がある。モデルは2つの区間をこう定義している。定常走行区間:自動車専用道路又は信号交差点から十分離れた一般道路で、自動車がトップギヤに近いギヤ位置で走行する区間。走行速度 V は 40 km/h から 140 km/h の範囲とする。もう一方は非定常走行区間:信号交差点を含む一般道路で、自動車が頻繁に加速・減速を繰り返しながら走行する区間。走行速度 V は 10 km/h から 60 km/h の範囲とするである。
30km/hという速度は、定常走行区間の下限である40km/hを下回る。 つまり生活道路で想定される速度域は非定常走行区間に入り、係数は30ではなく10になる。速度を下げたときの音の下がり方は、係数30の場合より小さい。
この点は、次に見る欧州の実測値とも整合する。速度制限を50km/hから30km/hに下げた都市で報告されている低減量は、多くが数デシベルの範囲に収まっている。
目的が1つだけ書かれている
警察庁がドライバー向けに配ったリーフレットにも、同じ趣旨しか書かれていない。最高速度は、交通の安全と円滑を図るためにあり、これを守ることは、ドライバー、同乗者、歩行者、自転車の方々を守ることにつながります。
安全のための改正である。そこに争う点はない。
ただし、公表されている説明はここまでである。 なぜ30km/hなのかを示す数字は、警察庁・警視庁のページにもリーフレットにも載っていない。 対象となる道路の形と、守るべき速度と、目的が1行。それだけである。
問題は、目的が1つだけ書かれていることの帰結にある。 目的が1つなら、効果の測り方も1つになる。 事故件数と死傷者数は毎年集計される。生活道路の音がどう変わったかを集計する仕組みは、この改正に付いていない。
構造を読む
同じ手段を、騒音のために使った都市がある
速度制限を騒音対策として使う考え方は、日本の外では珍しくない。
アテネ国立工科大学のミケララキとヤニスによるレビューは、欧州40都市の実施結果を整理している。そのなかにチューリヒの記述がある。Zurich's decision to lower its speed limit was primarily driven by the goal of reducing noise pollution. After implementing this measure, traffic noise decreased by an average of 1.6 dB during the day and 1.7 dB at night。
チューリヒは騒音を減らすために速度を下げ、下げた結果として昼1.6 dB、夜1.7 dBの低下を実測した。同レビューは他都市の数字も並べる。in Buxtehude, Germany, there was a reduction of 7 dB. Similarly, in Graz, Austria, noise levels decreased by 1-2 dB, while in Berlin, Germany, a reduction of 3 dB was observed. In Modena, Italy, noise levels decreased by 3-5 dB。
| チューリヒ(スイス) | 日本(2026年9月1日) | |
|---|---|---|
| 速度を下げた目的 | 騒音の低減が主たる目的。法定の騒音基準を超える街路を対象にした | 交通の安全と円滑。歩行者・自転車の保護が説明に挙げられている |
| 対象の選び方 | 基準を超えている街路を選んで下げる | 道路の形(中央線等がない)で全国一律に下げる |
| 騒音の測定 | 実施前後で測定し、昼1.6 dB・夜1.7 dBの低下を確認 | 騒音の測定は改正に組み込まれていない |
| 住民への影響の把握 | 騒音のわずらわしさと睡眠妨害の自己申告を調査 | 事故件数・死傷者数が主な指標になる |
| 適用の速さ | 対象街路ごとに順次 | 施行日に全国一斉 |
対象の選び方と適用の速さでは、日本のやり方のほうが広く速い。チューリヒが基準超過の街路を1本ずつ選んでいるあいだに、日本は条件に当たる道路すべてを1日で切り替えた。 手段の規模では、おそらく世界でも例の少ない実施になっている。
測っていないのが、音である。
変わったのは上限であって、実際の速度ではない
ここで慎重になっておきたい。法定速度が60km/hから30km/hになったことと、走っている車が実際に遅くなることは別である。
生活道路で常時60km/h近くが出ていたわけではない。狭く、見通しが悪く、歩行者がいる道では、もともと速度は上限より低い。だから改正で実際の速度がどれだけ下がるかは、事前には決まらない。守られる度合いによって変わる。
音について言えば、これは決定的な条件になる。式に入るのは法定速度ではなく走行速度Vである。 上限を書き換えただけでは、式のVは動かない。
だからこそ、測らなければわからない。どの程度の速度低下が起きたのか。その低下が音にどう出たのか。両方とも、実測しなければ推定にとどまる。
チューリヒが得た1.6 dBという数字も、モデルの計算値ではなく実測値である。速度がどれだけ下がったかを含めた、現場での結果になっている。
測られないものは、政策の効果として数えられない
苦情空白という現象(このサイトの記事)で扱ったとおり、生活道路の音は、そもそも記録に残りにくい。通報しても状況が変わらないなら通報しないほうが合理的で、その結果として苦情の件数は被害の量を表さなくなる。
同じことが、今回の改正でも起きうる。音が下がったとしても、下がったことを示す記録がどこにも作られない。逆に音が下がらなかったとしても、下がらなかったことも記録されない。 どちらの場合も、この改正は「事故が減ったかどうか」だけで評価される。
幹線道路沿いに住む人ほど騒音被害が大きい(このサイトの記事)で整理したとおり、日本の環境基準は道路に面する地域に緩い値を置き、達成には長い猶予を用意してきた。生活道路はそもそも常時監視の対象から外れやすい。測定点が置かれていない場所で起きた変化は、制度の統計には現れない。
目的が1つであることの、費用
安全を目的に据えたこと自体を問題にしているのではない。歩行者の致死率が30km/hを境に変わるという根拠は明確で、その理由だけで改正は正当化できる。
指摘したいのは別のことである。 副次的な便益を目的に入れないと、その便益は測られず、次の判断の材料にならない。
具体的に何が失われるかを挙げておく。
1つ目は、 守らせるための根拠が1本しかなくなる ことである。速度規制の実効性は、いずれ「事故が減ったか」だけで問われる。事故は件数が少なく年変動が大きいため、短期では効果が見えにくい。音は連続量で、比較的短期でも差が出る。効果を示す証拠として使える指標を、あらかじめ捨てていることになる。
2つ目は、 沿道の住民が変化を言語化できなくなる ことである。「静かになった」という体感は、測定値と結びついてはじめて行政への要望になる。数字がなければ、体感は個人の印象のまま残る。
何を成果として数えるかを先に決めておく話は、アウトカム指標の設計(このサイトの記事)で扱ったとおりである。指標を後から足すことはできるが、施行前の値は後から取れない。
3つ目は、 次の設計に引き継げるものが減る ことである。速度と音の関係が日本の生活道路で実際にどう出るかは、今回のような全国一斉の変更でしか測れない。この機会を逃すと、次に同じ規模の自然実験が来るのがいつになるかわからない。
この改正が、観察の機会として何を持っているか
改正は2026年9月1日に施行された。施行前の状態を測る機会は、すでに過ぎている。
それでも観察できるものは残る。既存の常時監視測定点のうち生活道路に近い地点には、改正をまたいで連続した時系列がある。そこには差が記録されているはずで、後から読み出せる。
もう1つは、遵守の度合いが時間とともに変わることである。速度規制の遵守は施行直後に最も高く、その後に緩むことが多い。 遵守が緩む過程で音が戻るなら、速度と音の関係が日本の生活道路でも成り立っていたことになる。 逆に音が動かなければ、実際の走行速度がもともと上限に縛られていなかったことを示す。
つまりこの改正は、全国一斉という規模で、速度と音の関係を観察できる状態を作っている。4つの研究仮説と検証計画(このサイトの記事)に置いた「苦情空白地帯」と「用途地域と騒音格差」は、いずれも生活道路の実測を欠いたままだった。その空白に対して、これは条件の揃った自然実験にあたる。
残る問い
音が下がる手段が、音を目的にせずに実施された。
効果があったかどうかを、誰が確かめるのだろうか。
この記事で使った統計の出典
- 1警視庁「生活道路における法定速度について」(令和8年) 出典を開く
- 2日本音響学会「道路交通騒音の予測モデル ASJ RTN-Model 2013」(国土技術政策総合研究所 資料)(2013年) 出典を開く
- 3日本音響学会「道路交通騒音の予測モデル ASJ RTN-Model 2013」(国土技術政策総合研究所の資料)(2013年) 出典を開く
- 4警察庁・都道府県警察「生活道路における自動車の法定速度が引き下げられます」(リーフレット)(令和8年9月1日 施行) 出典を開く
- 5Michelaraki, E. and Yannis, G., Assessing the effectiveness of 30km/h speed limit in cities(アテネ国立工科大学)(2024年) 出典を開く
参考文献
生活道路における自動車の法定速度が引き下げられます — 警察庁 (2026). 警察庁
生活道路における法定速度について — 警視庁 (2026). 警視庁
道路交通騒音の予測モデル ASJ RTN-Model 2013 — 日本音響学会 道路交通騒音調査研究委員会 (2013). 国土技術政策総合研究所の資料
Assessing the effectiveness of 30km/h speed limit in cities — Michelaraki, E. and Yannis, G. (2024). National Technical University of Athens