年収の壁 130 万円 出口戦略 — 配偶者控除廃止案と社会保険制度設計
「年収の壁」130 万円問題の出口戦略を構造分析。配偶者控除廃止案 / 年収制限緩和策 / 社会保険制度設計の選択肢を、就業調整 / 共働き世帯損失 / 税制歳入の三軸で整理する。
ざっくり言うと
- 130 万円の壁の「暫定措置」は 2023 年 10 月に開始、2025 年 10 月に恒久化された。だが「同一人について原則として連続 2 回まで」という設計上の上限が残り、3 回目以降の出口は制度として未設計のまま
- 税の壁は 2025 年改正で配偶者控除の本人年収要件が 103 → 123 万円、配偶者特別控除の満額要件も 150 → 160 万円へ前進した一方、社会保険の壁は 130 万円のまま固定。税と社会保険の段差が拡大し、第 3 号被保険者制度と配偶者控除の二重構造を浮かび上がらせている
- NRI 2025 年 6 月分析では約 466 万人の有配偶パート女性が就業調整を行い (有配偶パート女性の 6 割)、その 8 割が「壁がなくなればもっと働きたい」と回答。Kitao & Mikoshiba (2022) の RIETI 研究は、配偶者控除・社会保険料免除・遺族年金 (75% 給付) の 3 制度撤廃で女性の労働参加率が 12.5 ポイント上昇、平均賃金が 27.7% 上昇するシミュレーション結果を示している
何が起きているのか
2023 年暫定措置の構造、2025 年恒久化、2026 年 4 月判定方法変更、それでも壁は残存している現状
「年収の壁・支援強化パッケージ」は 2023 年 10 月に時限的措置として始まり、2025 年 10 月 1 日付の厚労省通知で恒久化された。事業主証明による被扶養者認定の弾力化がその中核で、繁忙期等で一時的に年収が 130 万円を超えても、事業主が「一時的な収入増加である」旨を証明することで被扶養者資格を継続できる仕組みである。
ただし設計上は 「同一人について原則として連続 2 回まで」 という上限が残る (年 1 回の被扶養者再認定時点で発動する仕組みのため、実質的には 2 年間で運用される)。3 回目以降は原則どおり扶養から外れる。さらに 2025 年 6 月 13 日に成立した年金制度改正法に伴い、2026 年 4 月から判定方法が「直近の実績収入」から「労働契約上の年収見込み」へ移行する。残業等による一時的な年収増では原則として扶養から外れない取扱いが導入されるが、130 万円という閾値そのものは維持される。
つまり改革は「壁を動かす」のではなく「壁の判定方法を変える」性格にとどまる。NRI の 2025 年 6 月分析は、有配偶パート女性の 6 割が「年収の壁」を理由に就業調整を行い、その人数は約 466 万人と推計、就業調整を行う層の 8 割が「壁がなくなればもっと働きたい」と回答している現状を示している。改正後も就業調整インセンティブの根は残ったままになる。
並行して、税の壁は別軸で動いた。2025 年改正で配偶者控除の本人年収要件 (給与収入ベース) は 103 万円から 123 万円へ引き上げられ、配偶者特別控除で満額 38 万円を受けられる年収上限も 150 万円から 160 万円へ拡張された。さらに同改正で基礎控除 (95 万) + 給与所得控除 (65 万) = 160 万円という本人課税最低限の引き上げが行われている。結果として「税の壁は 160 万円付近、社会保険の壁は 130 万円のまま」という段差の拡大が起きている。税と社会保険の制度間整合性が崩れる方向に動いているのである。
第 3 号被保険者数も急減している。厚労省「令和 6 年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によれば、第 3 号被保険者数は令和 4 年度末 721 万人 → 令和 5 年度末 686 万人 (-36 万、-4.9%) → 令和 6 年度末 641 万人 (-45 万、-6.5%)と 3 年で約 11% 減少した。後述する被用者保険の適用拡大が「事実上の縮小」として機能した結果である。本記事はこの 3 つの動き ― 暫定措置の恒久化、税と社会保険の段差拡大、第 3 号被保険者の急減 ― を 1 階層深く掘り下げる。
配偶者控除 本人年収要件
税+20 万円 (2025 年改正)
社会保険 被扶養者認定基準
社会保険据置 (判定方法のみ変更)
配偶者特別控除 満額上限
税+10 万円 (2025 年改正)
本人課税最低限 (基礎控除 + 給与所得控除)
税新設水準 (95 + 65 万円)
※ 出典: 厚生労働省『年収の壁への対応』(2025-10-01)、財務省 2025 年税制改正、野村総合研究所『2025 年制度改正で「年収の壁」はどの程度動いたか』(2025-06)。税側は 20 万円・10 万円・新設水準で前進したが、社会保険側の 130 万円は判定方法 (実績収入 → 契約上見込み) のみ変更され、閾値そのものは据置
背景と文脈
暫定措置の「2 回ルール」、106 万円撤廃との連動、税と社会保険の段差、第 3 号被保険者制度との二重構造
暫定措置の「2 回ルール」と出口設計の不在
支援強化パッケージは 3 本柱からなる。106 万円対策 (短時間労働者の被用者保険加入促進)、130 万円対策 (事業主証明による弾力化)、配偶者手当の見直し促進である。厚労省 Q&A によれば、130 万円対策の中核となる事業主証明は、被扶養者認定の弾力化を「一時的な収入増加」として定義する制度設計だった。
「連続 2 回まで」という線が引かれた意味は明確である。「一時的」を制度的に定義する試みであり、それを超えて常態化する場合は原則どおり扶養から外れる、という構図を残した。だがそのとき労働者には 3 つの選択肢しか残らない。(a) 労働時間を週 20 時間以上に延ばし第 2 号被保険者になる、(b) 年収を 130 万円未満に戻す、(c) 扶養から外れて国民健康保険・国民年金に加入する。(a) は手取り減のリスクを伴い (経過措置 3 年間は最大 50% 軽減)、(c) は年約 20 万円の新規負担になる。暫定措置は 2 回分問題を先送りにする装置であり、構造問題への解は提供していない。
業界紙・社労士団体の報告では、繁忙期延長や年末調整時期の駆け込み利用が中心となっており、厚労省は事業主証明の具体的な利用件数を体系的には公表していない。「連続 2 回」要件があるため、3 回目以降の取り扱いについて労働者・事業主双方に不安が残るとの指摘が継続している。
106 万円の壁撤廃との連動 — 130 万円の比重が相対的に上昇する
2026 年 10 月、被用者保険の賃金要件 (月額 8.8 万円 ≒ 年 106 万円) が撤廃される。企業規模要件も段階的に撤廃され、結果として「週 20 時間以上働く短時間労働者」は強制的に被用者保険加入の対象になる。これにより第 3 号被保険者から第 2 号被保険者へ移行する人が増加する。3 年で 11% 減少した第 3 号被保険者数の動きは、この適用拡大の先行効果である。
ここで構造的に重要なのは、106 万円の壁が消えた後、130 万円の壁が「唯一残る社会保険の壁」になることだ。週 20 時間未満で働く短時間労働者にとっては、被用者保険加入義務がない一方、扶養を維持するためには 130 万円未満に収まる必要がある。短時間労働の選択肢を残しつつ被扶養者資格を維持するためには、依然として就業調整が必要となる。比重は相対的に上昇する。
配偶者控除との「二重壁」構造
130 万円の壁は社会保険上の被扶養者認定基準である。一方、税制上は別軸で動いている。財務省 の令和 7 年度税制改正大綱では、配偶者控除の本人年収要件が 103 万円 → 123 万円、配偶者特別控除の満額要件 (38 万円控除) も 150 万円 → 160 万円へ拡張された。また本人課税最低限も基礎控除 95 万 + 給与所得控除 65 万 = 160 万円相当へ引き上げられている。
結果として、税は個人単位化に向けて漸進、社会保険は世帯単位を維持する分岐が起きた。労働者にとっては複数の閾値を同時に意識する必要があり、行動コストが高い。制度ごとの管轄省庁 (財務省・厚労省) が分かれていることが調整を困難にする。
歴史的に見れば、1961 年導入の配偶者控除と 1986 年導入の第 3 号被保険者制度は、ともに「男性稼ぎ主・女性主婦」モデルを制度的に固定化する装置として機能してきた。男女共同参画局 資料は、被用者の配偶者で年収 130 万円未満の者は保険料負担なしで国民年金に加入できる仕組みの逆機能を指摘してきた。経団連、連合、商工会議所、経済同友会、関経連はいずれも廃止・縮小方向の提言を公表しているが、2025 年改正法では制度そのものの廃止は見送られ、適用拡大による「事実上の縮小」路線が選ばれた。
構造を読む
出口設計 3 シナリオ、ジェンダー視点 (Kitao / 大沢 / 落合)、政治的コスト、構造転換の現実性
配偶者控除廃止案 — 廃止賛成論と反対論の論拠
配偶者控除廃止議論は古くから存在するが、論点は単純ではない。賛成論の論拠は「税負担が働き方を左右する」(62.4%)、「女性を低賃金パートへ誘導する」といった就業調整インセンティブの是正にある。一方、反対論の論拠は「育児・介護不足で働きたくても働けない人」(83.3%)、「片働き世帯の増税」(66.7%) というケア基盤の不足と片働き世帯への配慮にある。
両論とも事実に基づいており、どちらかが完全に間違っているわけではない。だからこそ「廃止すれば解決」と単純化することはできない。大沢真理 が指摘するように、日本の生活保障システムは「男性稼ぎ主モデル」を前提とする逆機能を抱えているが、その逆機能の解消には複数の制度の同時調整が必要となる。
年収制限緩和策 — 「壁を動かす」の限界
第二の選択肢は閾値そのものを動かすことだ。税の壁は 2025-2026 年に既に動いた。社会保険の壁を同様に動かすことは技術的には可能である。だが、ここに 2 つの制約がある。
第一に、第 3 号被保険者の保険料を負担しない構造そのものは閾値を動かしても変わらない。閾値を 130 万円から 160 万円に動かしても、その閾値の下に再び就業調整が集中するだけで、構造問題は解消されない。
第二に、社会保険財政の観点からは閾値引き上げは収入減を意味する。配偶者の保険料負担が発生しないまま給付対象が拡大すると、財政的に厳しくなる。「壁を動かす」改革は構造問題の温存装置になりうる。
社会保険適用拡大 — 2026 年 10 月の方向
第三の選択肢は、現在進行中の方向 ― 適用拡大による事実上の縮小 ― である。2026 年 10 月の 106 万円要件撤廃、企業規模要件の段階的撤廃により、第 3 号被保険者から第 2 号被保険者への移行が継続する。河野太郎 も 2025 年 1 月の解説で「適用拡大が第 3 号被保険者制度の事実上の縮小路線」であることを論じている。
この路線の利点は政治的摩擦が比較的小さいことだ。明示的な「廃止」ではなく、自然減としての縮小を選ぶ。だが弱点は、3 つある:
- 適用拡大の対象外となる労働者 (週 20 時間未満) には影響しない
- 130 万円の壁は残るため、就業調整は依然として発生する
- 縮小完了までの期間が長く、その間の「現役世代の負担構造」は固定される
ハイブリッド — 構造転換路線
第四の選択肢は、配偶者控除・第 3 号被保険者制度・被扶養者認定の三位一体改革と、個人単位課税への移行を組み合わせた構造転換である。Kitao & Mikoshiba (2022) は配偶者控除、社会保険料免除、遺族年金 (75% 給付) の 3 制度を撤廃すると、女性の労働参加率が 12.5 ポイント上昇、平均賃金が 27.7% 上昇、消費が 3.0% 上昇するシミュレーション結果を示した。Akabayashi (2006)、Bessho & Hayashi (2014, 2015) も第 3 号被保険者の女性の労働供給弾力性は男性より高く、社会保険料負担に強く反応することを実証している。
CEPR の同主題コラム は「低所得配偶者向けの税・社会保険優遇は、日本の女性の労働参加と賃金成長の障害」と結論づけている。イギリス (1990 年に個人単位課税へ移行) やスウェーデン (1971 年に移行) の事例は、構造転換の効果を示している。
ただしこの路線は政治的コストが最大である。第 3 号被保険者 641 万人と国税庁「令和 6 年分 民間給与実態統計調査」が示す配偶者控除受給者約 608 万人への影響は無視できない。「制度を撤廃すれば終わり」ではなく、ケア基盤の同時整備が必須となる。落合恵美子 が指摘するように、ヨーロッパ・アメリカが 1970 年代以降にケアを「脱家族化」したのに対し、日本は第 3 号被保険者制度等で「近代家族の再強化」を行った。撤廃と同時に保育・介護インフラの整備を進めなければ、廃止反対論の指摘する「働きたくても働けない人」の問題が顕在化する。
国際比較 — 個人単位課税への移行事例
世界の制度設計は 3 系統に大別できる。
北欧型 (個人単位課税): スウェーデンは 1971 年に世帯合算課税から個人単位課税へ移行した。配偶者控除に類する制度を撤廃し、配偶者の収入水準にかかわらず個人単位で課税する構造に変えた。同時に保育サービスを公的に整備し、ケアの脱家族化を進めた。結果として女性の労働参加率は急上昇し、現在の北欧型福祉国家モデルの基盤となっている。
ドイツ・大陸欧州型 (夫婦合算オプション): ドイツの夫婦合算課税 (Ehegattensplitting) は世帯モデルを残した制度である。所得格差のある夫婦に有利な構造のため、片働きを促進する効果を持つと指摘されている。近年では税制改革論議の対象となっており、配偶者の労働参加促進のために段階的な見直しが議論されている。
フランス型 (N 分 N 乗法): フランスのN 分 N 乗法 (quotient familial)は世帯所得を家族構成員数 (子も含む) で按分して課税する仕組みである。出生率政策と結びついた制度設計であり、所得が高い家庭に対する税の軽減効果が大きい。日本でも導入論があるが、ケア基盤と一体運用されないと、配偶者の就業調整インセンティブを温存しうる。
日本の現状は「世帯モデルを残しながら個別の控除制度で調整する」設計であり、北欧型・大陸欧州型・フランス型のいずれにも完全には当てはまらない。石塚浩美 が指摘するように、年収の壁が労働供給に与える影響は経済学的にも実証されている。
出口設計の 3 シナリオ
以上の選択肢を整理すると、出口設計は次の 3 つのシナリオに集約される。
シナリオ 1 — 漸進路線 (現状): 適用拡大による事実上の縮小、暫定措置の連続継続。第 3 号被保険者数の自然減を待つ。政治的摩擦は最小だが、構造問題の解消には長期間を要する。
シナリオ 2 — 段階解消路線: 130 万円の閾値を段階的に引き上げ、最終的に廃止。第 3 号被保険者制度も段階的に縮小。配偶者控除との整合を取りながら、個人単位課税への移行を視野に入れる。中期的な構造調整。
シナリオ 3 — 構造転換路線: 配偶者控除・第 3 号被保険者制度・被扶養者認定の三位一体改革と個人単位課税への移行。Kitao らのシミュレーションが示す効果は大きいが、ケア基盤の同時整備が必須で、政治的コストも最大。
現状はシナリオ 1 だが、第 3 号被保険者数の急減と税の壁の前進を考えると、2030 年代にはシナリオ 2 か 3 への移行圧力が高まると指摘されている。
構造的含意 ― 「世帯モデル」から「個人単位」への移行論点
最後に、本記事の出発点に戻る。「年収の壁」全体地図ではなく、130 万円の暫定措置を縦に深掘りすると何が見えてくるか。
見えてくるのは、戦後日本の社会保険・税制は「世帯モデル」を前提とした制度設計であり、その前提が現実の労働市場・家族構造とずれてきているという構造である。1961 年の配偶者控除導入、1986 年の第 3 号被保険者制度導入は、いずれも「男性稼ぎ主・女性主婦」モデルを制度的に支える装置だった。だが共働き世帯比率は 1980 年の 34% から 2024 年には 7 割を超え、「主婦のパート労働」を前提とした制度設計が現実とずれている。
暫定措置は、このずれを 2 回分先送りにする装置でしかない。3 回目以降の出口は制度として設計されていない。社会保険適用拡大による「事実上の縮小」も、進行中ではあるが完了までの時間は長く、その間も就業調整インセンティブは残る。
「世帯モデル」前提の制度を「個人単位」に移すには、税・社会保険・遺族年金・配偶者控除の同時調整が必要となる。ケア基盤 (保育・介護) の整備が伴わなければ、廃止反対論の指摘する「働きたくても働けない人」の問題が顕在化する。大沢真理 や落合恵美子が論じてきた「脱家族化の遅れ」と「近代家族の再強化」の構図は、ここで「年収の壁」問題と直接接続する。
130 万円の壁の出口を考えることは、戦後日本が選ばなかった「個人単位」モデルへの移行を考えることでもある。本記事は全体地図への入り口ではなく、その地図の中の 1 点を縦に掘り下げた。読者には全体俯瞰と一点深掘りの往復をすすめたい。
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参考文献
年収の壁への対応 — 厚生労働省. 厚生労働省
年収の壁・支援強化パッケージ — 厚生労働省. 厚生労働省
令和6年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況 — 厚生労働省. 厚生労働省
令和7年度税制改正大綱 — 財務省. 財務省
第3号被保険者制度について — 内閣府男女共同参画局. 内閣府男女共同参画局
2025年制度改正で『年収の壁』はどの程度動いたか — 野村総合研究所. 野村総合研究所
Why Women Work the Way They Do in Japan: Roles of Fiscal Policies — Kitao, S.; Mikoshiba, M.. RIETI
Tax and social insurance benefits for low-income spouses stand as obstacles for women's participation and wage growth in Japan — CEPR VoxEU. CEPR
年収の壁・支援強化パッケージに関するQ&A — 厚生労働省. 厚生労働省
参考書籍
働き方と年収の壁の経済学 — 石塚 浩美. 日本評論社

