一般社団法人社会構想デザイン機構
ISVD-LAB-002批判的分析
2.2.1

疑念の製造業 — タバコと気候変動の60年戦争

タバコ産業と化石燃料産業が科学的コンセンサスに対して組織的に「疑念」を製造してきた60年の歴史を分析する。同一の科学者グループ、同一の戦略パターンが繰り返し用いられてきた事実から、「疑念の製造」を無知生産の基本メカニズムとして理論化する。

横田 直也
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何が起きているのか

1954年1月4日、アメリカの主要新聞に全面広告が掲載された。タイトルは「A Frank Statement to Cigarette Smokers(喫煙者への率直な声明)」。タバコ産業の主要企業が連名で発表したこの声明は、喫煙と健康被害の因果関係を示す研究に対して、こう応答した——「この問題にはまだ科学的な論争がある。我々は真実の究明に全力を尽くす」。

これが、20世紀最大の「疑念の製造」キャンペーンの始まりであった。

タバコ産業の戦略は、喫煙の安全性を証明することではなかった。証明する必要はなかったのである。やるべきことは一つだけ——「まだわかっていない」という印象を維持し続けること。Brown & Williamson社の1969年の内部メモは、この戦略を一文で要約している。

Doubt is our product since it is the best means of competing with the "body of fact" that exists in the mind of the general public.

「疑念こそが我々の製品である。一般大衆の心に存在する『事実の総体』に対抗する最良の手段だからだ」

この戦略は驚くべき成功を収めた。喫煙と肺がんの因果関係を示す科学的エビデンスは1950年代にはすでに蓄積されていたにもかかわらず、アメリカで実効性のある規制が実施されるまでに40年以上を要した。その間に数百万人が肺がんで命を落とした。

そして、まったく同じ戦略が——しばしば同じ科学者によって——気候変動の否認に転用された。

疑念製造の歴史的タイムライン
(図解準備中)

図: タバコ・気候変動 — 疑念製造の変遷

背景と文脈

無知学の出発点としてのタバコ産業

Robert N. Proctorが2008年に「アグノトロジー(無知学)」を提唱したとき、その中心的事例はタバコ産業であった。Proctorは『Golden Holocaust』(2011)において、タバコ産業が科学的無知を「製造」するプロセスを、数十万ページの内部文書(1998年のMaster Settlement Agreementで公開)に基づいて詳細に記録した。

Proctorの重要な洞察は、この「無知の製造」が偶然の産物ではなく、高度に組織化された産業活動であるという点にある。タバコ産業は、独自の研究機関を設立し、科学者を雇用し、学術誌に論文を発表させ、メディアに「科学的論争が存在する」という印象を与え続けた。

疑念の商人たち

Oreskes & Conway(2010)は『Merchants of Doubt(世界を騙しつづける科学者たち)』において、驚くべき事実を明らかにした。タバコ産業の疑念製造に関与した科学者の一部が、その後、酸性雨・オゾン層破壊・気候変動の科学的コンセンサスに対する疑念製造にも関与していたのである。

Fred SeitzやFred Singerといった物理学者は、冷戦期に核兵器開発に携わった後、産業界のための「疑念の科学者」に転身した。彼らの動機は、必ずしも金銭的なものだけではなかった。環境規制を「自由市場への政府介入」と見なすイデオロギー的信念が、産業界の利益と合致したのである。

この事実は重要な含意を持つ。疑念の製造は、単純な「企業の悪意」だけでは説明できない。イデオロギー・科学者の自己認識・産業的利益・政治的アジェンダが複合的に絡み合う構造的現象なのである。

David Michaelsの「製品としての疑念」

Michaels(2008)は『Doubt is Their Product』において、タバコ産業が確立した手法が、化学物質・製薬・食品産業に広く転用されている実態を明らかにした。Michaelsは後にオバマ政権下でOSHA(労働安全衛生局)長官を務め、産業界の規制回避戦略を内部から観察する立場にもあった。

Michaelsが特に強調したのは、「科学的不確実性」の悪用である。あらゆる科学的知見には程度の差こそあれ不確実性が存在する。産業界はこの不確実性を戦略的に誇張し、「まだ結論が出ていない」という印象を作り上げることで、規制を遅延させた。

構造を読む

疑念製造の5ステップ

タバコ産業から気候変動否認に至る歴史を分析すると、「疑念の製造」には共通する5つのステップが存在することがわかる。

ステップ1: 科学的不確実性の戦略的誇張

あらゆる科学研究には不確実性がある。疑念製造者はこの不確実性を「科学的合意は存在しない」と読み替える。1954年のFrank Statementが典型であり、2000年代のExxonMobil社の気候変動に関する広報活動も同一パターンを踏襲している。

ステップ2: 独自研究への資金提供

産業界は自前の研究機関を設立し、「もう一つの科学的見解」を生産する。タバコ産業のCouncil for Tobacco Research(CTR)、化石燃料産業のGlobal Climate Coalition(GCC)がその代表例である。これらの機関は、既存の科学的コンセンサスに「対抗する」研究を戦略的に資金提供した。

ステップ3: メディアの「両論併記」の悪用

ジャーナリズムの「バランス」原則を逆手に取る。97%の科学者が合意している問題であっても、「反対意見」を同等に扱うことを要求する。メディアは「公平性」の名の下に、圧倒的多数の科学的見解と少数の異論を50:50で提示する。読者は「まだ意見が分かれている」と認識する。

ステップ4: 政策決定の遅延

「科学的合意がない以上、拙速な規制は避けるべきだ」という論理が構築される。この段階では、ステップ1〜3で製造された「疑念」が、政策立案者の判断を正当化する材料として機能する。規制が遅延するたびに、産業界は利益を確保し続ける。

ステップ5: 責任の個人化

最終的に、問題の責任は個人に転嫁される。「喫煙は個人の自由な選択である」「環境負荷は消費者のライフスタイルの問題である」。構造的・産業的な問題が、個人の選択と責任の問題にすり替えられる。

同一パターンの転用

この5ステップは、驚くほど忠実に反復されてきた。

対象時期主要アクター戦略の核心
タバコと健康1954〜1998タバコ産業(CTR)「因果関係は未証明」
酸性雨1980年代石炭産業「自然要因かもしれない」
オゾン層破壊1980〜90年代化学産業「科学的不確実性がある」
気候変動1989〜現在化石燃料産業(GCC)「コンセンサスは存在しない」
ワクチン安全性1998〜現在反ワクチン団体「もっと研究が必要」

注目すべきは、タバコ→酸性雨→オゾン層→気候変動の系譜において、Frederick SeitzやS. Fred Singerなど、文字通り同一人物が「疑念の科学者」として活動していた事実である。戦略が転用されただけでなく、人的ネットワークそのものが引き継がれた。

無知学的分析——なぜ「疑念」は強力なのか

Proctor(2008)の無知の三類型で整理すると、疑念の製造は明確に第三類型——「戦略的に作られた無知」に分類される。しかし、その効力の源泉を理解するには、認知科学的な視点が必要である。

第一に、人間の認知は「確実性」を求める。完全な無知よりも、「まだわかっていない」という中間状態のほうが心理的に受け入れやすい。疑念の製造者はこの認知的傾向を利用する。

第二に、科学的プロセス自体が不確実性を内包する。科学者は自ら「まだわかっていないこと」を明示する誠実さを持つ。疑念の製造者は、この科学的誠実さを悪用する。

第三に、「両論併記」は直感的に公平に見える。97%対3%という比率を知らなければ、賛否両論を同等に提示するメディアの姿勢は合理的に見える。これは多元的無知(Pluralistic Ignorance)とも接続する——「まだ議論がある」と思い込む個人が多数派になると、社会全体が「まだわかっていない」という認識に固定される。

現代への射程

疑念製造の構造は、21世紀においてさらに複雑化している。

デジタルメディアの普及により、「もう一つの科学的見解」を発信するコストは劇的に低下した。本研究室のブランドリーニ非対称性に関する論考で分析したように、AI生成コンテンツの普及は、この構造をさらに加速させている。

また、疑念の製造は「否認」から「遅延」にシフトしている。気候変動の存在自体を否定するのはもはや困難だが、「対策のコストが高すぎる」「技術革新で解決できる」「途上国の排出が問題だ」といった論法で、具体的な行動を遅延させることは依然として有効である。Lamb et al.(2020)はこれを「気候遅延言説(Discourses of Climate Delay)」として12のパターンに分類した。

本研究室の問い

タバコと気候変動の事例は、疑念の製造を理論化するための最も豊富な資料を提供する。本研究室が追究する問いは以下のとおりである。

  • 疑念の製造の5ステップは、他の領域(健康食品、農薬、電磁波)にどの程度一般化できるか
  • 日本社会において、疑念の製造はどのような固有の形態をとるか(「両論併記」の文化的特殊性、メディアの構造)
  • デジタル時代における疑念製造の構造変化——個人化・分散化する「疑念の製造業」をどう捉えるか
  • 疑念の製造に対する構造的対抗策として、どのような制度設計が有効か

これらの問いは、本研究室の他の事例分析——特に情弱ビジネスにおける複雑性の武器化、メディアのアジェンダセッティングにおける不可視化——と構造的に接続する。

参考文献

Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance

Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press

原文を読む

世界を騙しつづける科学者たち(Merchants of Doubt)

オレスケス, N. & コンウェイ, E. M.(福岡洋一 訳). 楽工社

原文を読む

Doubt is Their Product: How Industry's Assault on Science Threatens Your Health

Michaels, D.. Oxford University Press

原文を読む

Golden Holocaust: Origins of the Cigarette Catastrophe and the Case for Abolition

Proctor, R. N.. University of California Press

原文を読む

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