一般社団法人社会構想デザイン機構
ISVD-LAB-002基盤構築
1.4.4

EBPMにおける戦略的無知の阻害効果 — 「知らないふり」が政策を歪める

Linsey McGoeyの戦略的無知理論を日本のEBPM推進に適用し、エビデンスが存在するにもかかわらず政策に反映されない構造的メカニズムを分析する。「データが不十分」「まだ早い」という言説の裏にある意図的な無知の構造を明らかにする。

何が起きているのか

日本でEBPM(Evidence-Based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)が推進されて久しい。2017年の骨太方針に明記されて以降、各省庁でEBPM推進の体制整備が進められてきた。

しかし、現実の政策立案において、利用可能なエビデンスが体系的に無視されるケースが後を絶たない。「データが不十分である」「因果関係が証明されていない」「まだ時期尚早である」——これらの言説は一見、科学的慎重さに基づく合理的判断に見える。

だが、Linsey McGoey(2012)が理論化した「戦略的無知(Strategic Ignorance)」の視点から見ると、これらの言説の多くは、不都合なエビデンスを意図的に排除するための修辞的戦略として機能している。知らないのではなく、知らないふりをしているのである。

エビデンスの存在
データ・研究・現場報告が 政策課題を示している
戦略的無知
不都合なエビデンスを意図的に無視・矮小化 「データが不十分」「まだ早い」という言説
政策の慣性
既存制度の維持が優先され 新たなエビデンスが反映されない
帰結: 構造的問題の放置
知られているのに対処されない問題が蓄積 → 当事者の不利益が固定化
図: 戦略的無知のループ — EBPMを阻む「知らないふり」の構造

背景と文脈

戦略的無知の理論的枠組み

McGoey(2012)は、経済学における「合理的無知(Rational Ignorance)」概念を批判的に再構成し、「戦略的無知」の概念を提示した。

合理的無知とは、情報収集のコストが便益を上回る場合に、合理的に「知らないこと」を選択する行為を指す。これ自体は経済学的に正当化される。しかし McGoey が問題にしたのは、「すでに知っている情報を知らないことにする」行為である。

タバコ産業が健康被害のエビデンスを40年にわたって「不十分」と主張し続けた歴史は、戦略的無知の典型例である。Proctor(2008)の無知学はまさにこの事例から出発した。

日本のEBPMにおける戦略的無知パターン

日本の政策立案過程において、以下のような戦略的無知のパターンが観察される。

パターン表面的な理由戦略的機能
「データ不十分」論法サンプルが少ない、調査期間が短い不都合なエビデンスの排除
「因果未確定」論法相関はあるが因果ではない政策対応の先送り
「時期尚早」論法もう少し議論が必要現状維持バイアスの正当化
「海外事例は参考にならない」論法日本の文脈は特殊である先行事例からの学習の遮断
「省庁間調整が必要」論法横断的な検討が必要責任の分散と遅延

これらのパターンに共通するのは、エビデンスの「不在」ではなく、エビデンスの「不採用」が問題であるという点である。データが存在しないのではなく、存在するデータを採用しない判断が——しかも合理的に見える形で——なされている。

無知学における位置づけ

Proctor(2008)の無知の三類型(ネイティブな無知・失われた知識・戦略的に作られた無知)において、EBPMにおける戦略的無知は第三類型に正確に該当する。

ただし、タバコ産業のように単一の主体が意図的に無知を生産しているわけではない点に注意が必要である。日本のEBPM推進における戦略的無知は、むしろ制度的・組織的なインセンティブ構造の産物である。

具体的には、以下の構造的要因が複合している。

  • 省庁の縦割り構造: 横断的なエビデンスの統合を阻害する
  • 予算サイクルの慣性: 前年踏襲型の予算編成がエビデンスに基づく資源配分を困難にする
  • 政策評価の形式化: EBPM推進は形式的な「ロジックモデル作成」に矮小化されがち
  • 人事ローテーション: 2〜3年で担当が交代するため、蓄積されたエビデンスの組織記憶が失われる

構造を読む

「知らない」と「知らないふり」の区別

戦略的無知の分析で最も重要なのは、「本当に知らない」と「知っているが知らないふりをする」を区別することである。

この区別は実証的に困難だが、以下の指標が手がかりとなる。

  1. エビデンスへのアクセス可能性: 当該エビデンスが公開されており、政策担当者がアクセス可能であったか
  2. 先行議論の存在: 審議会等で当該エビデンスが議論された記録があるか
  3. 選択的引用: 一部のエビデンスは採用し、他のエビデンスは無視するパターンがあるか
  4. 反論の質: 「データ不十分」等の反論が、具体的にどのような水準を求めているか(際限なく高い水準を求めることは戦略的無知の兆候)

ループ構造

戦略的無知は一度きりの判断ではなく、自己強化的なループを形成する。エビデンスが無視される → 政策が変わらない → 問題が継続する → 新たなエビデンスが生まれる → 再び無視される——このループの中で、「知らないふり」は制度として固定化される。

さらに深刻なのは、このループが外部からは「慎重な政策運営」として肯定的に評価されうる点である。「拙速な政策変更を避ける」という名目で、戦略的無知は合理性の外衣をまとう。

認識的不正義との接続

仮説2(NPOの認識的不正義)で分析した「NPOの声が届かない構造」は、この戦略的無知のループと密接に連動している。

NPOが現場のエビデンスを提示する → 証言的不正義によって割り引かれる → 「データ不十分」として処理される → 戦略的無知のループに吸収される。認識的不正義は、戦略的無知のループへの入り口として機能しているのである。

対抗の可能性

戦略的無知への対抗は、単にエビデンスを提示するだけでは不十分である(提示されたエビデンスこそが無視されているのだから)。必要なのは、以下のようなメタレベルの介入である。

  1. 無視のパターンの可視化: どのエビデンスが、どのような理由で、どの段階で排除されたかを系統的に記録・公開する
  2. 「データ不十分」の基準の明示化: 政策判断に必要なエビデンスの水準を事前に定義し、恣意的な基準引き上げを防ぐ
  3. 政策評価の第三者化: 省庁自身による自己評価ではなく、独立した機関によるエビデンス利用状況の監査
  4. 組織記憶の制度化: 人事ローテーションによるエビデンスの散逸を防ぐ知識管理システムの整備

本研究室の問い

  • 日本のEBPM推進において、戦略的無知はどのような政策領域で、どの程度体系的に生じているか
  • 「データ不十分」等の反論が、合理的慎重さと戦略的無知のどちらに該当するかを判別する基準は何か
  • 戦略的無知のループを断ち切るための制度設計原則は何か
  • NPOによるエビデンス提示の有効性を高めるための戦略は何か

参考文献

Strategic unknowns: towards a sociology of ignorance

McGoey, L.. Economy and Society, 41(1), 1-16

原文を読む

Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance

Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press

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Post-Truth

McIntyre, L.. MIT Press

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無知学への招待 — 未知・無知・不可知の人文学

鶴田想人. 明石書店

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