何が起きているのか
日本の国土面積の0.6%に、在日米軍専用施設の約70%が集中している。この数字は広く知られている。中学校の教科書にも載っている。テレビのニュースでも定期的に報じられる。
にもかかわらず、本土に住む多くの日本人にとって、沖縄の基地問題は「実感」として存在しない。
これは単なる地理的距離の問題ではない。北海道の人が沖縄の暑さを「実感」できないのとは質的に異なる。基地問題における「知らなさ」は、構造的に維持されている ——すなわち、知らないでいられるための条件が、社会制度の中に組み込まれている。
2016年、辺野古新基地建設をめぐる県民投票で72%が反対票を投じた。本土のメディアはこれを報じた。しかし報道は数日で消え、政府は工事を続行した。民主主義の手続きに則って示された民意が、実質的に無視された。このとき問題になるのは、政府の態度だけではない。本土の有権者の多くが、この問題を「自分の問題」として受け止めなかったという事実——この無関心の構造こそが、無知学の分析対象である。
沖縄に対する構造的無知の階層図
(図解準備中)
背景と文脈
西山秀史のagnotology的分析
西山秀史(2023)は『現代思想』2023年6月号の無知学特集において、沖縄基地問題をagnotologyの視点から分析した。西山の議論の核心は、本土日本人の沖縄に対する無知が 偶然の産物ではなく、構造的に再生産されている という指摘にある。
西山は、この構造的無知が三つの層で作動していると論じた。第一に、メディア報道における沖縄の「周辺化」。第二に、教育課程における沖縄史の縮小的扱い。第三に、「基地と経済」というフレーミングによる問題の矮小化である。
この分析は、Mills(1997)が『The Racial Contract』で論じた 「白人の無知(white ignorance)」 の構造と共鳴する。Millsは、白人優越社会が自らの特権を維持するために、構造的な「知らないこと」を——意識的にではなく、社会システムとして——再生産していると論じた。沖縄問題における本土の「知らなさ」は、この「白人の無知」の日本的変奏として読むことができる。
沖縄返還50年と報道の構造
1972年の沖縄返還から50年が経過した2022年、多くのメディアが特集を組んだ。NHKはドキュメンタリーを放送し、全国紙は特集面を割いた。しかし鶴田想人・塚原東吾(2025)が『無知学への招待』で指摘するように、「節目報道」は構造的無知の解消には寄与しない。
なぜか。節目報道は 一時的な注意の喚起 にすぎないからである。50年、60年、70年——節目のたびに報道量は一時的に増えるが、それは日常的な報道の不在を補うものではない。むしろ、「節目には報じた」という事実が、日常的な不報道の免罪符として機能する危険すらある。
「基地経済」フレーミングの問題
沖縄基地問題が本土メディアで取り上げられるとき、「基地と経済」というフレームが頻繁に用いられる。基地関連収入が沖縄経済の何パーセントを占めるか。基地返還後の跡地利用でどれだけの経済効果があったか。
このフレーミングは、問題を 経済合理性の枠内に閉じ込める 効果を持つ。基地問題は人権の問題であり、自治の問題であり、歴史的正義の問題である。しかし「経済」のフレームに押し込まれることで、これらの次元は背景に退く。「基地がなくなったら沖縄経済は成り立たない」という——実際には不正確な——言説が流通し、問題の構造的理解を妨げる。
ここで注意すべきは、このフレーミングが 必ずしも意図的ではない という点である。メディアは経済的影響を報じることが「客観的」で「バランスの取れた」報道だと考えている。しかしその「客観性」が、構造的な問題の不可視化に寄与している。Proctor(2008)が示したように、無知の生産は必ずしも意図を要しない。
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attention-controlとepistemic-exclusionの複合
沖縄問題における本土の構造的無知は、本研究室のコーディング軸において attention-control(注意の操作) と epistemic-exclusion(認識的排除) の複合メカニズムとして記述される。この複合は4つの層で作動している。
第1層: メディアの構造的不報道
沖縄の基地問題は「報じられていない」わけではない。しかし、報じられ方に構造的な偏りがある。
全国紙の紙面における沖縄関連記事の量は、米軍関係者の事件・事故が発生した際に突出的に増加し、それ以外の時期は低水準にとどまる。つまり、沖縄は「事件」としては報じられるが、構造的問題 としては日常的に報じられない。これはattention-controlの典型である——何に注意を向けるかの選択が、何に注意を向けないかの決定を暗黙に含んでいる。
さらに、報道の視点にも偏りがある。全国紙の沖縄報道は、しばしば「東京から見た沖縄」の視点で書かれる。日米安全保障体制の文脈、外交関係の文脈、あるいは政局の文脈。沖縄に住む人々の日常的な経験——騒音、事故のリスク、土地の収奪——は、統計や抽象的な記述として処理されることが多い。
第2層: 教科書における沖縄史の縮小
教育課程において、沖縄の歴史は構造的に縮小されている。琉球王国の歴史、琉球処分、沖縄戦、米軍統治期——これらは教科書に記載されてはいるが、「日本史」の大きな叙述の中では周辺的な位置づけにとどまる。
とりわけ問題なのは、沖縄戦の扱いである。沖縄戦は日本の地上戦として唯一の大規模戦闘であり、民間人を含む約20万人が犠牲となった。しかし教科書での記述量は限られており、「集団自決」(強制集団死)の軍関与をめぐる記述の書き換え問題が2007年に大きな議論を呼んだ。
教育におけるこの縮小は、若い世代の沖縄に対する認識の基盤を規定する。教科書で十分に学ばなかった問題は、「知らない」のではなく「知る必要がないもの」として認知構造に組み込まれる。これはepistemic-exclusionの制度的形態である。
第3層: 「基地経済」フレームによる問題の経済化
前述の「基地経済」フレーミングは、問題の多次元性を一次元に還元する操作である。
沖縄県の基地関連収入が県民総所得に占める割合は、復帰直後の15.5%(1972年)から5.3%(2019年度)にまで低下している。返還された基地跡地——たとえば北谷町のアメリカンビレッジ周辺——は、基地時代の数十倍の経済効果を生んでいる。これらの事実は、「基地がなければ経済が成り立たない」という言説を否定する。
しかし、「基地経済」フレームが問題なのは、その事実関係の正誤だけではない。問題を経済の枠内で議論すること自体が、人権・自治・歴史的正義という本質的な次元を不可視化する。「基地は経済的にはマイナスだ」と論証しても、問題の核心には届かない。なぜなら、基地問題は本来、経済問題ではないからである。
第4層: 「日本の安全保障のため」による正当化
最も強力な不可視化メカニズムは、安全保障の論理による正当化である。「日米同盟は日本の安全保障の基盤であり、基地の存在は必要なコストである」——この論理は、沖縄の負担を 国益のための犠牲 として位置づける。
この正当化が構造的無知を維持するのは、問題の焦点を 配分の正義 から逸らすからである。仮に基地が安全保障上必要だとしても、なぜその負担が0.6%の面積に70%集中しなければならないのか。この問いは安全保障の論理の内部では発せられない。
Mills(1997)の用語を借りれば、これは 認識論的契約 ——何を「知らないことにする」かについての暗黙の社会的合意——の一形態である。本土の有権者は、沖縄の負担の不均衡を「知っている」が、安全保障という大義名分によってその不正義を「知らないこと」にしている。
intentionalityの問題
このケースにおいて、intentionality(意図性)はどのように評価されるか。
メディア、教育制度、政治家——いずれも「沖縄に対する無知を意図的に生産しよう」としているわけではない。しかし、結果として構造的無知が再生産されている。本研究室のコーディングでは、この種のintentionalityを structural(構造的) と分類する。
structural intentionalityの特徴は、個々のアクターの善意と両立する という点にある。記者は真摯に取材し、教師は誠実に教え、政治家は国益を考えている——にもかかわらず、システム全体としては無知が再生産される。この構造的性質が、問題の是正を困難にしている。個人を批判しても構造は変わらない。
「知っているのに知らない」という逆説
この事例が無知学の理論に突きつける最も根本的な問題は、「知識としては流通しているが、実感としては存在しない」 という状態の概念化である。
Proctor(2008)の三類型——ネイティブな無知、失われた知識、戦略的に作られた無知——は、いずれも「知識の不在」を前提としている。しかし沖縄問題における本土の無知は、知識の不在ではない。「0.6%に70%」という数字は知られている。教科書に載っている。テストに出る。
問題は、その知識が 行動や判断を規定する「生きた知識」として機能していない ことにある。認知科学の用語を借りれば、宣言的知識(declarative knowledge)としては保有しているが、手続き的知識(procedural knowledge)——実際の意思決定に影響を与える知識——としては機能していない状態である。
この「知っているのに知らない」状態を、本研究室は 認識的不活性化(epistemic inactivation) と暫定的に呼ぶ。知識は存在するが、その知識が認知的・感情的・行動的な帰結を生み出すための回路が遮断されている状態である。構造的無知の研究は、知識の「不在」だけでなく、知識の「不活性化」にも射程を広げる必要がある。
本研究室の問い
この事例分析が提起する問いは以下の通りである。
- 認識的不活性化はどのような条件で発生し、何がそれを解除するか。沖縄への修学旅行が一時的に「実感」を生むとすれば、なぜその実感は持続しないのか
- 安全保障の論理が構造的無知の維持にどの程度寄与しているかを、実証的に測定できるか
- 教育課程の変更は、構造的無知の解消にどの程度有効か。あるいは教育だけでは不十分であり、メディア・政治・市民社会の複合的な変化が必要か
- 沖縄以外の構造的周辺化——たとえば福島、水俣、アイヌ——と比較したとき、共通するメカニズムは何か。attention-controlとepistemic-exclusionの複合は、これらの事例にも同じパターンで観察されるか
これらの問いは、横断テーマ「フィルター構造」および「認識的不正義」と直接接続する。
参考文献
沖縄基地問題とアグノトロジーの視点からの課題
西山秀史. 現代思想 2023年6月号 特集=無知学/アグノトロジーとは何か
原文を読む
Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance
Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press
原文を読む
The Racial Contract
Mills, C. W.. Cornell University Press
原文を読む
無知学への招待 — 〈知らないこと〉を問い直す
鶴田想人・塚原東吾 編. 明石書店
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