何が起きているのか
「先生がそう言うなら」。「お医者さんの言う通りにしておけば」。「お上が決めたことだから」。
日常的に発せられるこれらの言葉は、権威への信頼の表明であると同時に、「自分は知る必要がない」という認識の表明でもある。ある事柄について判断する権限を他者に委ね、自分自身は判断の根拠を知ろうとしない。この態度は、個人の怠惰として片付けられがちだが、実際には権威と無知が構造的に結びつくメカニズムの産物である。
精神科医・作家のなだいなだは、1974年の『権威と権力——いうことをきかせる原理・きく原理』において、この構造を鮮やかに分析した。権力が強制によって服従を引き出すのに対し、権威は「自発的な」服従を引き出す。権威の前では、人は命じられるまでもなく自ら従う。そして、従うことの前提として、自ら知ることを放棄する。
無知学の観点から見れば、権威は無知の最も効率的な再生産装置の一つである。権威が「知る必要がない」という認識を組織的に植え付けることで、知識の非対称性が維持・拡大される。しかも、この過程はしばしば「信頼」や「専門性の尊重」として正当化されるため、批判の対象にしにくい。
権威と無知再生産の循環構造
(図解準備中)
背景と文脈
なだいなだの権威分析——精神科医の目
なだいなだ(本名: 堀内秀、1929–2013)は精神科医としての臨床経験に基づき、人間が「いうことをきく」メカニズムを分析した。『権威と権力』は高校生との対話形式で書かれており、難解な学術概念を平易な言葉で解きほぐしている。
なだの分析の核心は、権力と権威の区別にある。権力は、物理的強制力や制度的懲罰を背景に服従を引き出す。銃を突きつければ、人は従う。しかし、権威は異なるメカニズムで作動する。医者が「この薬を飲みなさい」と言えば、多くの患者は疑問を差し挟まず従う。教師が「この公式を覚えなさい」と言えば、多くの生徒はその公式の導出過程を問わない。
この「自発的服従」のメカニズムは、権威を持つ側が意図的に設計したものとは限らない。むしろ、社会的関係の中で構造的に生じるものである。患者は自らの身体について最終的な判断を医者に委ね、生徒は何を学ぶかの選択を教師に委ねる。この委任の過程で、「知る」という行為そのものが権威者に集中し、被権威者の側では「知る必要がない」という認識が内面化される。
なだはこの構造に精神科医として日常的に直面していた。精神科の診療において、患者が「先生の言う通りにします」と言うとき、それは治療的に最善の態度とは限らない。自身の症状について知り、治療の選択肢を理解し、主体的に判断することが回復に寄与する場合も多い。しかし、医療の権威構造はしばしばこの主体性を抑制する。
ミルグラム実験——権威への服従の実験的証明
権威への服従の問題は、1960年代のスタンレー・ミルグラムの実験によって衝撃的な形で可視化された。実験参加者の65%が、権威者(実験者)の指示に従い、学習者役の被験者(実際にはサクラ)に致死的レベルの電気ショックを与え続けた。
ミルグラム実験が示したのは、権威への服従が「性格の弱さ」や「道徳性の欠如」の問題ではないということである。実験参加者は苦悩し、抵抗を示しながらも、最終的には権威に従った。問題は個人の道徳ではなく、権威と服従の構造にある。
無知学の観点から注目すべきは、ミルグラム実験における「知の配分」の構造である。実験参加者は、「この実験の科学的意義を知っているのは実験者であり、自分は知る必要がない」と認識していた。実験者が「実験の継続が必要です」と告げるとき、参加者は実験者の方が「何が正しいか」を知っていると信じて従った。
ここに権威と無知の再生産の構造が露わになる。権威者が「知っている」と認識されることで、被権威者は「知らなくてよい」と認識する。この認識の非対称性が、道徳的判断の停止を可能にする。
Frickerの証言的不正義——権威の裏面
Miranda Fricker(2007)の認識的不正義理論は、権威と無知の関係をさらに精密に分析する道具を提供する。
Frickerが定義した「証言的不正義(testimonial injustice)」は、話し手の社会的アイデンティティに基づく偏見によって、その証言の信頼性が不当に割り引かれる現象である。権威の文脈で言えば、これは裏返しの構造として理解できる——権威者の証言は「過剰に」信頼され、非権威者の証言は「不当に」割り引かれる。
この二重の歪みは、知識の分配を構造的に偏らせる。権威者が誤っていても訂正されにくく、非権威者が正しい知見を持っていても受容されにくい。教育、医療、司法のいずれの領域においても、この構造は反復的に観察される。
構造を読む
教育——カリキュラムが「教えないこと」を決める
教育制度は、知識の配分を組織的に管理する装置である。カリキュラムは「何を教えるか」を規定するが、それは同時に「何を教えないか」を規定することでもある。
文部科学省の学習指導要領は、各学年で教えるべき内容を詳細に定めている。しかし、学習指導要領に含まれない内容——たとえば労働法の基礎、税制の仕組み、行政への異議申し立ての方法——は、体系的に教えられない。これらの知識は、市民として権利を行使するために不可欠であるにもかかわらず、「教える必要がない」と制度的に判断されている。
この「教えないこと」の決定は、意図的な隠蔽とは異なる。カリキュラム設計者が「市民に労働法を知らせまい」と陰謀を企てているわけではない。しかし、結果として生じる知識の空白は、労働者の権利主張を困難にし、使用者側に有利な情報非対称性を維持する機能を果たしている。
Proctor(2008)の枠組みでは、これは「構造的に作られる無知」の典型例である。個々の行為者の意図とは無関係に、制度の設計がシステマティックに無知を再生産する。教師は与えられたカリキュラムに従い、生徒は与えられた範囲で学び、誰も「なぜこれを教えないのか」を問わない。
さらに、教育の権威構造は「問い方」そのものを規定する。「教科書に書いてあることは正しい」という前提は、教育の効率化に寄与するが、同時に批判的検討の余地を狭める。「なぜ教科書にはこれが書かれていないのか」という問いは、教育の場においてはめったに奨励されない。
医療——インフォームド・コンセントの形骸化
医療は、権威と無知の関係が最も直接的に生命に関わる領域である。
インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の原則は、医療における権威の独占を是正するために導入された。患者が自身の病状と治療の選択肢を理解した上で、主体的に判断するという理念である。
しかし、日本の医療現場におけるインフォームド・コンセントは、しばしば形骸化している。医師が専門用語を用いて説明を行い、患者は内容を十分に理解しないまま同意書に署名する。この過程は法的な要件を満たしているが、患者の「知る権利」が実質的に保障されているとは言い難い。
無知学の視点から見れば、インフォームド・コンセントの形骸化は、権威構造による無知の再生産が制度的是正の試みを凌駕している事例である。制度として「知らせなければならない」と規定しても、権威の非対称性が温存されている限り、「知る」ことの実質は保障されない。
問題は情報の量ではなく、情報を「自分のものとして理解し判断に活用する」能力と意欲の非対称性にある。長年にわたって「医者の言う通りに」という態度を内面化してきた患者に対し、突然「あなたが判断してください」と求めても、判断の基盤が形成されていない。
この「判断の基盤の欠如」こそが、権威が再生産する無知の本質である。知識が不足しているだけでなく、知識を獲得し活用する「認識的主体性(epistemic agency)」そのものが抑制されている。
司法——法的無知は免責されない
司法の領域では、権威と無知の関係がもう一つの興味深い形態をとる。「法律の不知は許さず(ignorantia juris non excusat)」——法を知らないことは違法行為の免責事由にならない、という法原則である。
この原則は一見すると合理的に見える。「知らなかった」を免責事由として認めれば、法制度は機能しなくなる。しかし、無知学の視点からは、この原則の前提自体が問われるべきである。
法体系は膨大かつ複雑であり、法律の専門家でさえ全分野を把握することは不可能である。一般市民が、自身に関連する法律のすべてを理解することは事実上不可能である。にもかかわらず、法は「知っていること」を前提として個人に責任を課す。
ここに「知る責任の個人化」という構造が浮かび上がる。教育制度が法律の基礎を体系的に教えず、司法制度が法律を容易に理解可能な形で提供していないにもかかわらず、法を知らないことの責任は個人に帰される。制度が構造的に無知を生産しておきながら、その無知の結果を個人に負わせる——これは無知の再生産の最も洗練された形態の一つである。
Bergstrom & West(2020)が『Calling Bullshit』で指摘したように、制度が生み出す情報の非対称性は、「ブルシット(でたらめ)」が流通する条件を構造的に作り出す。司法の文脈では、法的知識の非対称性が「法を知る者」と「法を知らない者」の間の権力格差を恒常的に維持する。
3領域の共通構造——認識的服従のメカニズム
教育、医療、司法の3つの領域に共通するのは、「認識的服従(epistemic submission)」のメカニズムである。
認識的服従とは、特定の領域における判断の権限を、権威者に委ねる態度を指す。この態度は合理的な根拠を持つことが多い——医学の素人が医療判断を医師に委ねるのは、通常は合理的である。しかし、認識的服従が構造的に固定化されると、以下の問題が生じる。
第一に、権威者の誤りが訂正されにくくなる。認識的服従が定着した関係では、被権威者が権威者の判断に異議を唱える動機と手段を持たない。医療過誤が長期間発覚しない事例、教育における誤った教科書記述が何十年も訂正されない事例は、この構造から生じる。
第二に、権威者自身も「知る範囲」が固定化される。医師は医学を知り、法律家は法を知る。しかし、患者の生活世界の知識、市民の日常的な法感覚——これらは権威者の側では「知る必要がない」とされがちである。認識的服従は双方向に無知を固定化する。
第三に、「何を知るべきか」の決定権が権威者に集中する。カリキュラムを決めるのは教育の権威者であり、治療方針を決めるのは医療の権威者であり、法を制定するのは立法の権威者である。この決定構造において、被権威者は「何を知るべきか」について発言する機会を構造的に欠いている。
対抗の可能性——認識的主体性の回復
権威と無知の再生産に対抗するためには、認識的主体性——自ら知り、判断する能力と意欲——の回復が必要である。
しかし、認識的主体性の回復は、「個人ががんばって勉強する」ことに還元されてはならない。問題は個人の努力ではなく、構造の設計にある。制度として「知る権利」を保障し、「知るための手段」を提供し、「知ったことに基づいて行動する」道筋を確保する必要がある。
具体的には、教育におけるカリキュラムの透明化(なぜこの内容を教え、あの内容を教えないかの開示)、医療における共同意思決定(shared decision-making)の実質化、司法における法的リテラシー教育の制度化などが考えられる。
いずれの施策も、権威そのものを否定するのではなく、権威が構造的に生産する無知を可視化し、被権威者の認識的主体性を制度的に支える方向を目指している。
参考文献
権威と権力——いうことをきかせる原理・きく原理
なだいなだ. 岩波新書
原文を読む
Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing
Fricker, M.. Oxford University Press
原文を読む
Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance
Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press
原文を読む
Calling Bullshit: The Art of Skepticism in a Data-Driven World
Bergstrom, C. T. & West, J. D.. Random House
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