知識は権力と不可分である。「知らない」と言うことは、権力の一形態でありうる。
何が起きているのか
「記憶にございません」。国会の証人喚問や行政文書の開示請求において、この言葉が繰り返される。2017年から2018年にかけての森友学園・加計学園をめぐる国会審議では、政府関係者から「記憶にない」「承知していない」「確認できない」という応答が連続した。
これは個人の記憶力の問題ではない。ある種の公的場面において、「知らない」という応答が制度的に許容され、むしろ合理的な選択肢として機能している構造の問題だ。
McGoey(2012)は「戦略的無知」を、知識を持つにもかかわらず「知らない」と主張することで得られる利益の問題として論じた。日本の政治における「記憶にございません」は、この戦略的無知の制度化された形態である。個人の判断ではなく、組織が「知らないでいる」ことを可能にする構造が問題の核心にある。
背景と文脈
「記憶」と「知識」の法的非対称性
「記憶にございません」という応答が機能する理由の一つは、法的な非対称性にある。
偽証罪が問われるのは、「事実と反することを述べた」場合である。「記憶にない」という応答は、「そのような事実はなかった」という事実の否定ではなく、「自分が覚えていない」という内的状態の表明である。内的状態を他者が客観的に否定することは困難だ。
この法的性質が、「記憶にございません」を低コストな防御手段にする。証明責任は相手側に移り、問われる側は「記憶がないのだから仕方ない」という形で応答できる。これは認識論的に重要な非対称性だ。事実を否定するよりも、認識を否定する方がはるかに反論が難しい。
Miranda Fricker(2007)の証言的不正義論は、「誰の証言が信頼されるか」という権力の問題を論じた。政治的記憶の否定は、この問題の逆面である。「誰の証言が否定できるか」という問いだ。権力を持つ者の「記憶にない」は、権力を持たない者の「確かに起きた」を打ち消す力を持つ。
組織的記憶と個人の記憶
個人の記憶と組織の記憶は別物だ。個人が忘れたとしても、組織には文書・メール・議事録・担当者間のやり取りが記録されている(はずだ)。
ここで問題となるのが、公文書管理の構造である。菅原琢が指摘するように、日本の行政では重要な決定が「打ち合わせメモ」や口頭確認として処理されるケースが多い。組織的な記録を残さないことで、後に「記録がない」「担当者に聞いても覚えていない」という状況を作れる。
これは偶然の産物ではない。行政の慣行として「後で問題になりうる決定は紙に残さない」という文化が形成されている場合、記録の不在それ自体が、説明責任を回避するための「先手」として機能する。個人の記憶喪失ではなく、組織的な記録生産の回避である。
森友・加計問題が示した構造
2017年以降の森友学園・加計学園をめぐる国会審議は、この構造を可視化した事例として重要だ。
財務省の公文書改ざん問題では、決裁文書300箇所以上が書き換えられた。注目すべきは、この書き換えが「なかったことにする」ためではなく、「疑問を持たれないようにする」ために実施されたことだ。事実を消したのではなく、事実への到達経路を遮断した。
これはEBPMにおける戦略的無知の阻害効果で論じた「不採用」のパターンと同型だ。エビデンスが存在するにもかかわらず、それを採用しない判断が組織的になされる。ここでは、エビデンスに到達する経路そのものが改変された。
構造を読む
「知らないでいる」の機能的分析
政治的文脈における「知らない」という応答には、少なくとも三つの機能がある。
責任の分散: 知らないならば、判断に関与していないことになる。判断に関与していなければ、結果の責任を負わない。「担当者が独断で」「省内の慣行で」という説明が成立する条件が作られる。
訴追リスクの回避: 知っていた上で判断したなら、その判断の合否が問われる。「知らなかった」という立場は、結果が悪くても「騙された」という形で整理できる。
議論の終息: 「確認できない」「記録がない」という応答は、事実関係の追求に上限を設ける。「ないものを証明せよ」という無理難題を相手に押しつける形で、議論を終わらせることができる。
「記憶」を問う国会質疑の構造
| 問いの形 | 応答の形 | 効果 |
|---|---|---|
| 「○○について知っていたか」 | 「記憶にございません」 | 事実の否定ではなく認識の否定で回避 |
| 「文書は存在するか」 | 「確認できません」「廃棄しました」 | 記録の不在で追及を断ち切る |
| 「担当者は誰か」 | 「組織として対応した」 | 責任主体を拡散させ個人を守る |
| 「決定の経緯を説明せよ」 | 「決定に至った資料はない」 | エビデンスの不在で再現不可能にする |
この表の左列(問い)が「認識的正義」への要求であり、右列(応答)が「認識的阻害」の実践だ。
沈黙の構造化との接続
silence-structuring の分析が扱ったのは、異論のコストが高まることで「知っていても言わない」が集団規模で固定化するメカニズムだった。
政治的記憶の否定は、これと補完的な構造を持つ。沈黙の構造化は「言わない」ことの正常化だが、「記憶にございません」は「知らない」ことの制度化だ。前者が情報の出口を閉じるなら、後者は情報の入口を閉じる。
組織的に見れば、この二つは連動する。「そういう話は上には上げるな」という沈黙の構造が機能している組織では、上位者が「知らないでいる」ことが構造的に保証される。「報告しなかった担当者」が責任を取る形で、「知らなかった管理者」が守られる。これは組織的な無知の垂直分業だ。
制度化の条件
なぜ「記憶にございません」が繰り返されるのか。それが「機能する」からだ。機能するとは、この応答によって説明責任の追及が実際に回避されてきたということだ。
機能する条件は三つある。第一に、内的状態(記憶)を客観的に反証する手段がないこと。第二に、記録が存在しないか、存在しても開示が拒否できること。第三に、メディアや世論の追及が一定期間で収束すること。
この三条件が揃う限り、「記憶にございません」は合理的な選択肢であり続ける。対抗するには、公文書管理の強化(記録の存在を保証する)と、開示請求制度の実質化(記録へのアクセスを保証する)の両方が必要だ。技術的な改革ではなく、「知らないでいることのコスト」を引き上げる制度設計の問題である。
参考文献
Strategic unknowns: towards a sociology of ignorance — McGoey, L.. Economy and Society, 41(1), 1-16
Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing — Fricker, M.. Oxford University Press
The Uncertainties of Knowledge — Stehr, N.. Transaction Publishers
Agnotology: The Making and Unmaking of Ignorance — Proctor, R. N. & Schiebinger, L.. Stanford University Press
→ 関連: silence-structuring とは何か | EBPMにおける戦略的無知 | 毎月勤労統計の不正と国家的無知
